医者の役割

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
金曜日の午後3時55分。クレーマー患者が来るまであと5分。 耳鼻科医の野田(はじめ)は地元で開業医をしている町医者だ。毎週金曜日の午後4時きっかりに、その患者はやってくる。 「先生、こんにちは。先週処方してもらった鼻うがいを試してみたけれど、やはり鼻が詰まるような感覚が抜けないのよ。これじゃあ、フルートで良い音なんか出せないわ。毎週通っているのに、どうしてよくならないのかしら。先生の見立てが間違っているんじゃないの?」 楽団のフルート奏者をしているという三森紗子はそう言って、非難がましい目で野田を見つめた。 「そうでしたか。鼻が詰まった感じが抜けないんですね。」 俺は三森の訴えに従い、鼻の診察を行い、告げる。 「鼻に特別異常はないようです。今日は別の種類のうがい薬を試しますか、それとも以前処方したものに戻してみますか?」 「ちっとも良くならないのに、うがい薬ばかり増えて行ってしまうわ。こんなんだから先生は田舎の町医者しか勤まらないのよ。いいわ。先週と同じ薬を出して頂戴。」 「分かりました。処方しておきます。お大事に。」 三森は長い黒髪をなびかせ、診察室を去っていた。 「先生、お疲れ様でした。」 いつも診察の助手をしてくれる看護師の佐藤が声をかけてくれた。 「あの人、毎週判を押したように同じ時間に来ては先生の不満ばっかり言って。だったら来なければいいのに。」 「いいんだよ。彼女には彼女なりの事情があるんだろうさ。」 「先生ったら甘いんだから。私だったらあんな患者、文句があるなら他の病院にかかってくださいって追い返しちゃうのに。」 「そうはいかないよ。田舎の町医者でそれは信用問題に関わるだろ。僕は気にしていないよ。」 佐藤はまだ不満げな表情だったがそれ以上は何も言わず、部屋を出て行った。 佐藤の言う通り、三森紗子は毎週やってきては、いつも同じような不満を訴えて帰っていく。他の病院を紹介するという選択肢も考えたが、何の所見もないのに高度な医療機関への紹介状を書くわけにもいかず、近医であればそもそも紹介状など出さなくとも彼女が行けば診てもらえる。そうしないのは、彼女なりの理由があるのだろうと思う。  フルート奏者というのが本当なら、きっと非常に厳しい世界に身を置いているのだろう。必死に言い訳を探さなければ、心の安定を保っていられないほどに。  もしかしたら、思うような演奏ができずに行きどまっているのかもしれないし、優秀な演奏者たちに交じって演奏することに重圧を感じているのかもしれない。スランプに陥って、なかなか抜け出せないでいるのかもしれない。    勝手な想像に過ぎない。しかし、彼女が診察室に入ってくるときの、今にも泣き出しそうなのを虚勢を張って堪えてるような表情を見るたび、あながち間違ってはいないのではないかと感じてしまう。しがない町医者に過ぎない自分にできることなどたかが知れているけれど、彼女の訴えに耳を傾けなければと思ってしまう。  彼女が診察室を出ていく時、少しでもその痛みが和らぐのなら。それが医者の役割だと思っている。彼女がどう思っているのかは分からないけれど、不満を言いながらも毎週通ってきているという事実だけで十分な気がした。 「先生、私来週は大事な演奏会があるからここには来られないの。」 いつもの不満、いつもの診察の後、帰り際に彼女は口にした。 「こんな田舎町の医者なんて、どうせ患者もいなくて暇なんでしょうから、来てもいいわ。」そう言って差し出されたのは演奏会のチケットだった。彼女は俯きがちに続けた。 「ノルマがあってね、何枚かは楽団員の買取になるから自分でチケットを売らないといけないの。こんな流行らない医院を経営しているのだもの、チケット代くらいは私が奢るわ。だから、…もしよかったら来てください。」 俺は戸惑いながらそのチケットを受け取る。空色の綺麗なチケットだった。「必ず行きます。」そう答えた。  そして翌週の金曜日、出かけた演奏会。  彼女の演奏は素晴らしかった。背筋を伸ばした座り姿もその音色も全てが輝いて見えた。心の安定さえ失いかけながらも必死で追い求めた演奏がそこにはあった。その演奏を聴き、ぼやけた視界で彼女の姿を瞳の奥に焼き付ける。自分も進まなくてはいけない。俺の中で決意が固まった。  翌週の金曜日午後4時、いつものように診察に来た彼女に俺は告げる。 「急だけれど、来月から都内の精神科病院に研修に行くことになりました。今までありがとうございました。ここを離れる決意ができたのはあなたのおかげです。」  親の開業した医院を継ぐためだけに医者になり、この小さな世界で満足していた。人の生死に関わることが恐ろしく、実家が耳鼻科で開業していることは自分にとって格好の逃げ道となった。  けれど本当は、精神科医になりたかった。人を導くことはできなくとも、話を聴き、一緒に悩み、少しでも人生が良い方に転がっていくように手助けできるような仕事をしたかった。もちろん、そう簡単にうまくいくとは限らない。 人の心に携わる仕事なんて、傷つくことの方が多いだろう。 それでも、毎週金曜日午後4時が近づくたび、時計を気にしていた自分。自分では気づかない振りをしていたけれど、午後4時までの5分はまるで時計の針が止まっているかのように長く待ち遠しかった。彼女がいる間は、医者として必要とされている自分を自覚することができたから。    彼女は一瞬驚いた顔をしたが、「精神科ね。藪の耳鼻科医よりはきっと向いているわね。」といたずらっぽく、それでいて少し寂しそうに微笑んだ。 もしかしたら彼女はクレーマーというよりもただのツンデレだったのかもしれない。 <後日譚>  東京の街中で見覚えのある人影を見つけた。彼女も気づいたらしく、近くに歩み寄ってくる。俺が東京に行くのをきっかけに、引退していた父が再び耳鼻科を再開したが三森紗子が通院してくることはなくなったと伝え聞いていた。 「もう大丈夫なんですね。」 俺の言葉に、彼女は顔を顰めて(しかめて)返した。 「全然良くなってなんかないわ。相変わらず薮医者ね。今なんか、久しぶりにヒールを履いて長く歩いてたから靴擦れがひどくてしょうがないのよ。」 「そんなに歩いて、どこに行くつもりだったんです?」 彼女は心なしか顔を赤くして答えた。 「冴えない顔を確認しに来たのよ。相変わらず私以外にモテなさそうな顔をしてて安心したわ。」 どうやら彼女は相変わらずツンデレらしい。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!