2020・7・9

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2020・7・9

   ニュースに目を通せばオリンピック関連のものばかりだ。主に過去の大会の偉大な選手や、日本人の活躍についてなど。来年に持ち越しになっても、2020年夏というのは平和の祭典の呪縛から逃れることはできないらしい。  絢太はスマートフォンをポケットに入れると、『あかねいろ』に目を向ける。あの日から十五年、絢太は毎年その駄菓子屋に来ていた。あいつに、奈那に会えるんじゃないかというささやかな期待を胸に。だが、もう十五年だ。いくらなんでも時が経ち過ぎている。  いない、か。もう止めておくか。  やかましいミンミンゼミの大合唱と、茹だるような日差しがその決意を強くさせる。絢太は来年は来ないと決めて『あかねいろ』に背を向けた。 「絢太? 絢太だよね?」  振り返った瞬間、眼前に立つ女性が絢太の名を呼んだ。彼女の顔を見る。麦わら帽子の中の表情が和らぐ。奈那だった。大人になった彼女は清廉性をまとったような美人に成長していた。 「奈那。ったく、待たせやがって。やっと来たのかよ」 「うん。出張でこっちにきたから。でも十五年ぶりだね。もしかして毎年待ってた?」 「待つっていうか、いるかなって寄ってただけだ。お前と別れた七月九日だけな」 「良かった。絢太が七月九日に来てくれて。私あの日、ルドベキアの花が咲く頃にとだけ言ってたから。あ、まだあるんだ」  奈那の視線が筐体の横へと向けられる。そこには十五年前と変わらず、ルドベキアの花が咲いていた。 「店主のおばちゃんも、おばちゃんとして当然生きている」 「なにそれ、ひどい。ふふふ。でも、変わらないね、ここ。懐かしいな、本当に」 『あかねいろ』を見上げる奈那。その横顔を見つめ心がざわめく自分に絢太は驚く。まさかあの日の感情が十五年経った今、こうも鮮やかに蘇るなんてと。同時にあの日、言えなかった彼女への言葉が喉元へとせりあがってくる。  しかし奈那はあのときの幼子じゃない。多くの人生経験を積み上げて大人となった女性なのだ。子供のころに発露したその気持ちを今伝えるのは、滑稽というものだろう。  ――でも、それでももし、伝えるきっかけがあるのならば。 「なあ、奈那」 「何?」 「対戦しようぜ。こいつでさ」 「こいつって……え、このゲームまだあったの?」 「レトロゲームとしてまた入荷したらしいぜ。できるか?」    奈那は少し悩む仕草を見せたあと、頷いた。 「多分、大丈夫。腕がまだ覚えているはずだから。負けないわよ」 「俺だって」  椅子に座りレバーを握る奈那。その手は白魚のように綺麗で小さかった。キャラクター選択のあとゲームが開始される。絢太は意識の全てをモニターに注ぐ。今度こそ勝つ。そして勝ったあかつきには奈那に気持ちを伝える。伝えたいからこそ絶対に負けるわけにはいかない。 「これで終わりよ。十五年ぶりの闘いも私の勝ちみたいね」 「そうはいくかってんだ。よし、避けたっ」 「え? うそ、そんなのってあり? あ、待って」 「待つかよ。これで――俺の勝ちだっ」 「きゃぁ」  奈那の扱うキャラクターの体力が全てなくなる。二対一でゲームは終了。絢太は奈那に勝った。 「よっしゃああぁっ」 「負けちゃった。ところでちょっと喜び過ぎじゃない? 絢太」 「十五年ぶりにリベンジできたからな。それと」 「それと、何?」 「いや、なんでもない」  絢太と奈那は駄菓子をいくつか買うと、ベンチに座る。自然に始まる会話。内容は昔を懐かしむものばかりだった。あんなことやこんなことがあったねとお互いにネタを見つけては笑い合い、時間は瞬く間に過ぎていく。十五年ぶりでこんなにも気兼ねなく楽しい時間を過ごせるとは思わなかった。それが絢太の奈那に対する気持ちを更に強くさせた。  会話が一旦止まる。突とあらゆる喧噪までが去り、静けさが訪れる。  今しかない。絢太は意を決すると口を開いた。 「奈那、俺さ――」 「私、実は来週結婚するの」  絢太と瞳を交える奈那が言う。二の句を告げない絢太の前で彼女が胸を押さえる。すると一つ、大きく呼吸をして先を続けた。 「良かった。やっと言えた。会ったからには絢太には伝えようと思って。だって大切な幼馴染だから。でもなかなかタイミングがなくて……。あれ、絢太も何か言おうとした?」  奈那が幸せを享受できるなら。  好きだった彼女が幸福をつかんだのなら、それでいい。  結婚して愛を育んで子供を産んで満たされた人生を送れるのであれば、伝えたい言葉が変わったっていい。    でもどこかで、ここで会えることを期待していて。  だからまた来ようと思う。 「いや、なんでもない。結婚おめでとう」  ――ルドベキアの咲く頃に。
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