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 じめじめと湿った重たい空気。うだるような暑さ。吸い込む熱気に、心なしか息苦しさすら感じる。夏の盛りなのだから、当然と言えば当然の気候だ。しかし仕事で疲弊しきった飯島逸(いいじま・はやる)のただでさえ鬱々と重たい体には、それは追い討ちのように感じた。  今日は朝から上司の機嫌が悪かった。だから極力関わらないようにしようと思っていたのに、そういう日に限って、狙ったかのようにトラブルは発生するものである。  逸の担当している顧客で、案件のひとつひとつは大きいが、やれ予算が、やれ納期がと後出しで注文をつけてくる少し面倒な客がいる。そこから、また無理難題な口出しをされたのだ。  加えて今日は金曜日だ。週末を挟んで来週にまで持ち越したくない。それにどちらにせよ、どう見積もっても今日中に見通しを立てておかなければ間に合わなくなってしまう。  逸は渋々と、不機嫌そうな上司の元へと赴いた。そして案の定、上司には睨まれてしまう。 「はあ? 自分でどうにかならないの? 飯島の客でしょ」 「はあ、すみません……」  周囲からは同情ともなんとも言えぬ生ぬるい視線を感じる。 「飯島はさ、」  そして、上司の説教が始まる。  逸はこれが嫌だったのだ。機嫌が悪い日は決まって、なにか話し掛ければ説教が始まる。それも、今言わずともよいことまで掘り起こされるだ。普段の数倍は時間もかかるし、精神的にも磨り減る。 (だから話し掛けたくなかったのに……)  逸は心の中で顧客に恨み言を零す。  それでも、無駄にも思えるような長い説教の時間をやり過ごしながらどうにか相談に乗ってもらい、最終的にはなんとか客先との話もついた。時刻を確認すれば、定時の少し前である。今日の業務はほとんどこの顧客に時間を割いてしまったが、他に急ぎの仕事はない。 (今日は定時で帰ろう)  とんでもなく忙しくはあったし、少し胃も痛んではいるが、今日は定時で上がれそうだ。むしろ、上がってしまおう、とすら思う。  そして、帰りを思って少しだけ気分が上昇する。  週末に定時で上がれることは少ない。定時で上がれるということは、単純に嬉しいことだ。が、逸の気力が回復した理由はそれだけではない。定時で上がることができれば、逸には寄りたい場所があるのだ。定時で上がるという限られた週末にのみ自分で自分に与えた、ささやかな褒美である。  今日はご褒美タイムを作れそうだとほくほくと残りの仕事を片付け、逸は定時を過ぎると早々に席を立った。  が、その瞬間である。逸はじとりとした視線を感じた。そして、これみよがしな大きなため息がオフィスに響く。 「はあ、週末に定時で上がれるなんていいよなあ。俺は誰かさんの相談に乗ってたせいで、全然仕事が片付かないんだがな」  上司の言う「誰かさん」とは、間違いなく逸のことだ。今日、上司に相談を持ち掛けていたのは逸しかいない。途端に、ぴしり、と逸の体は固まってしまう。  確かに逸の相談のせいで上司の時間は割いてしまった。けれど、無駄な説教の時間がなければ、もっと短く済んだはずだ。それに、そもそも面倒事が舞い込んだのは逸のせいではない。そんな思いが逸の中を駆け巡る。 (でも、そう考えてしまうことが責任転嫁なんだろうか……)  自分で解決できていれば、あそこまで上司の時間を割くこともなかったかもしれないし、機嫌を損ねることもなかったかもしれない。 「あ、えっと、なにかお手伝いできることは……」  逸は上司の元へ足を向けてそう尋ねる。が、そんな逸の言葉を打ち消すように上司は立ち上がり、「打ち合わせに行ってくる」と逸の脇を抜けて席を外してしまう。  そんな上司の背中を見送り、どうしていいのかわからずそのまま棒立ちになる逸に、ふと、後ろからジャケットの裾を引っ張られる。振り返れば、逸の隣の席の松岡が自分のデスクから腕を伸ばし、逸のジャケットをつまんでいた。 「あれ、打ち合わせっていう名前の休憩だから。気にしないで帰っちゃって大丈夫ですよ。今日はお疲れ様です」  労うようにそう微笑まれる。その優しさに、逸は固まっていた体がすうっとほぐれていくのがわかった。逸は「ありがとうございます」と小さく会釈を返すと、「お先です」と周囲にも手短に声を掛け、そそくさとオフィスを出た。  そうして今、帰りの電車の中である。今日一日の疲弊がずしりと肩にのしかかり、逸は知らず知らずのうちに、ずぶずぶと猫背になっていた。  定時で上がることは、決して悪いことではない。むしろ逸の会社では推奨されているくらいである。頭では、それがわかっている。  それなのに、定時で上がる日には、どうにも罪悪感が逸の胸の内を満たす。定時で上がった週末にご褒美タイムを設けるのは、そのためもあった。自分への慰めでもあるのだ。  胸を渦巻くもやもやとした感情を無理やり打ち消すように、逸は今から向かう先へと思いを馳せた。
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