8.

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「片付いてんね」  豊太郎が逸の家に一歩足を踏み入れて言った言葉は、それだった。 「汚いイメージでした?」  思わず笑いながら逸が問うと、豊太郎は少し困ったように笑い返してきた。 「いつも忙しそうだから、こう、週末に全部やっつけてるイメージだったかも。だからこう、服とかももっと散らかってるかと」  正直なその物言いに、逸はまた笑ってしまう。 「でも、そんな感じですよ。洗濯もなるべくこまめにとは思ってるんですけど、やっぱり土日にまとめてってことが多いですね。でもさすがに脱ぎっぱなしにはしてないですけど」  それから冷蔵庫を覗き込み、つまみになりそうな作り置きのおかずを取り出す。買ってきたつまみと合わせて皿に適当に盛り付けて、豊太郎を待たせていたローテーブルへと並べる。 「お、逸くんの手作りもあるの?」  並べられた皿を見て、豊太郎が嬉しそうに声を上げる。 「簡単な作り置きおかずですけど。そろそろ食べ切っちゃわないとなので、手伝ってもらってもいいですか?」 「もちろん。むしろありがたくいただく」 「はは、ありがとうございます」  笑ってそう応えながら、逸ははたと思う。 (来客用の箸なんてあったかな……)  あまり使っていないカラトリーをまとめてしまっている引き出しを開けば、ふと、今自分が使っているグリーンの箸と揃いの淡いオレンジ色が目に入った。以前に、衝動的に買ってしまったものだ。存在すら、すっかり忘れていた。一緒に買った茶碗も、使うこともなかったからいつの間にやら食器棚奥の方へ息を潜めてしまっていた。  逸はなんとも言えない気持ちでそれを取り出し、さっとひと洗いしてから豊太郎のところへ戻る。「どうぞ」と箸を渡せば、豊太郎の視線が逸の箸とを行き来したのがわかった。 「……ちゃんと食器もお揃いで用意してるんだね。ちょっと意外」  そう言われ、逸は苦笑して豊太郎の向かいに腰を下ろす。 「自分の箸を買い換えたときについ目に入って。来客用にあったら便利かなと思って買っちゃったんですよ。なんだかすごく気に入っちゃって」 「へえ」  嘘は言っていない。逸は笑みを貼り付けたまま、買ってきた酒に手を伸ばした。 「食べましょうか」 「うん」  豊太郎は、なにか物思いにふけるような顔のまま、それでも頷いて自分も酒を手に取る。 「じゃあ、一週間お疲れ様でした」 「逸くんも、お疲れ様」  手に取った缶をかちりと合わせる。そして、お互いに一口ずつ、それを煽った。  それからは、いつもどおりだった。一週間の出来事をぽつぽつと喋る。他愛のない会話だ。  豊太郎は、少し前から本格的に『ささ』を手伝うようになった。笹の教育は、逸には想像できないがどうにも厳しいらしく、豊太郎は眉を下げて「疲れる」と嘆く。けれど、どこか楽しそうでもあった。 「そういえば、昨日はやっとみたらしのタレの作り方も教えてもらったんだ」 「そうなんですか? そしたら、トヨくんの作るみたらしを食べられる日も近いかもしれないですね」 「そうだといいんだけど、なかなか難しいね。かあちゃんも怖い」 「はは、いつもそう言ってますけど、笹さんが怖いの、想像がつかないです」 「外面はいいんだよ、俺と違って」  ため息混じりに言う豊太郎に逸が思わず「それは認めるんですね」と返せば、豊太郎はふてくされたように頬を膨らませてにょっと逸の方へ手を伸ばしてくる。驚いて身を引いたものの長い腕に捕まってしまい、顎の下から両頬を包むように大きな手で掴まれた。逸が突然のことに驚いていると、豊太郎はいたずらが成功したかのように笑う。 「なかなかの憎まれ口を叩くようになったじゃない、逸くん」 「す、すびばせん」  頬を掴まれているせいでうまく喋れないながらも謝れば、豊太郎はまた笑って、手を放す。 「いいの、いいの。仲良くなってきた証拠じゃん。いい感じよ、逸くん」 そして、豊太郎はぐいと酒を煽った。 「ところで逸くん、」 「はい?」  少しだけ痛む頬をさすりながら逸が応えれば、豊太郎はにこにこと上機嫌に笑いながら、逸の作り置きのおかずを箸で口へ運ぶ。 「これ、めっちゃ美味しい」  逸の作ったきのこのマリネだった。 「お口に合ってよかったです。俺もそれ好きで、絶対に欠かさず作っておくんですよ。随分前にテレビでやっているのを見て真似して作ってみたんですけど、めちゃくちゃ美味しくて」 褒められたのが嬉しくて思わず逸がそう言えば、豊太郎もうんうんと頷く。 「レシピ教えてって言いたいところだけど、俺は料理は全然だめだから。でも毎日でも食べたいかも」 「喜んでくれて嬉しいです。そしたら、毎週出しますよ」 「本当? それは嬉しいな」  そう言って豊太郎は心の底から嬉しそうに笑うから、逸はどうにも照れくさくなる。そして、もう少し料理もレパートリーを増やそう、と心に決めた。こうやって毎週酒を飲むのであれば、毎回つまみを買うよりも作り置きのおかずがあった方が良さそうだ。  そうして逸と豊太郎は、いつの間にやら、毎週金曜日の夜は逸の作ったつまみで酒を煽り、『ささ』のみたらし団子でしめるという新しい習慣を過ごすようになったのだった。
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