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 逸はいつもどおりの最寄駅で電車を降り、借りているアパートへの道をこれまたいつもどおり歩く。小さな公園を過ぎ、いつもであればそのまままっすぐ行くところを左に折れた。そこに、逸の目的地がある。 「こんにちは」  のれんをくぐりつつ、古びた引き戸を開けて声を掛ける。オフィスや電車の中のキンと冷えた人工的な冷風とは違う、扇風機の生ぬるい風が、甘い香りをまとって逸の頬を撫でる。甘い空気に包まれて、知らず知らず、逸はほうっと息を吐き出した。不快なはずの暑さも、ここの空気だけは、なんだか逸を安心させた。  逸の目的地はここ、近所にある小さな団子屋『ささ』だった。店の中に足を踏み入れればショーケースの中に団子や大福などが並んでいるが、人はいない。引き戸が開く音がすると、奥から店主が出て来るのだ。  『ささ』は古い店で、六十代程に見える女がひとりで店を切り盛りしている。店主であるその女の苗字が「笹」というそうで、店名もそこから名づけられたのだと聞いた。  ただ、ひとりで営業していることもあって店仕舞いも早い。逸が定時で上がった日の褒美と決めているのも、あまりに残業をしてしまうとそもそも閉店時間までに間に合わないのだ。  そして逸の至福であり自分への褒美は、『ささ』のみたらし団子だった。この店のみたらし団子は、美味い。まず団子が美味い。ふわっと柔らかく、解けるように口の中でとろけていく。みたらしのタレは甘さが控えめで、甘味がそこまで得意ではない逸には衝撃的な出会いだった。大げさに聞こえるかもしれないが、こんなに美味しいみたらし団子を食べたのは、生まれて初めてだったのだ。 (毎食これでもいいくらいなんだよな……さすがにそうなるとまずいから金曜日だけって決めてるんだけど)  ほくほくとした気持ちでショーケースを眺めながら店主が現れるのを待っていると、店の奥からガタンという大きな音が鳴る。逸が何事かと驚いていると、ばたばたという足音がこちらへ向かってくる気配がした。  はて、と思う。  いつもであれば、店主である笹の「はあい」という柔らかい声が奥から返ってきて、やがてスリッパを擦る静かな足音とともに彼女は現れる。しかし今日は返事もなかったし、足音もどこか変だ。騒々しさすら感じる。  首を傾げながらいつも笹が現れる店の奥を覗き込む。すると、足音とともに、ぬっと思いもしない高さに顔が現れた。びっくりして見上げると、そこにいるのはどう見ても笹ではない。現れたのは、『ささ』にはどうにも似つかわしくない、金髪の若い男だった。 「いらっしゃーせ」  目が合い、投げやりに言われる。 「あ、どうも」  予想外の出来事に驚いた逸は、思わずそれに会釈で返す。と、現れた男は不思議そうな顔をした。が、それも一瞬で、ショーケースの上に腕をつくと、その手にあごを置く。そのとき、ちらりと耳元でピアスが光っているのが見えた。半袖のTシャツから覗く逸のものよりも筋肉質な太い腕にも、逸はどうにも違和感を覚えてしまった。いつもはそこに、割烹着に包まれた腕と、そこから覗く小さな手が優しく添えられるのに、と。  男は、自分をぼうっと見つめてくる逸を不審に思ったのだろう、訝しげな顔つきでショーケースを指で叩く。 「で、どれにすんの」  ため息混じりに尋ねられ、逸ははっとしてショーケースに目をやる。 「あ、えっと、みたらし団子二本ください」 「はいよ」  すると、男は今までの気だるげな雰囲気とは対照的に、意外な手さばきでみたらし団子を取り出して包み始める。その慣れた手つきを見て、今まで会ったことがなかっただけで、ずっといるアルバイトかなにかなのかもしれない、と逸は思った。笹はひとりで店をやっていると言っていたけれど、売り子は雇っていたのかもしれない、と。  それでもどうにも笹の不在が気になって、お代を支払いながら逸は男に尋ねる。 「あの、笹さんは……」 「あ?」  男は逸の質問に眉間に皺を寄せ、少し考えるように首を折ると、すぐに「ああ」と納得したように「かあちゃんのことか」と頷いた。 「かあちゃん」  思わず逸が繰り返せば、男は「そ」と短く応えた。 「かあちゃんは自治会のじじばばで飲み会。俺は店番」  はいよ、と包まれた団子を手渡され、逸は「どうも」と呆然と頷きながらそれを受け取る。  男は笹を「かあちゃん」と呼んだ。ということは、笹はこの男の母親だということだ。けれどこの男はどう見ても二十代、ひょっとしたら大学生くらいの年齢にさえ見える。  いわゆる幼顔という感じではない。やる気のなさげに薄く開かれた目は切れ長で、目尻は少し吊り上がっている。けれど、少し傷んだ金色の髪と醸し出す気だるげな雰囲気が、この男を若く見せているのかもしれなかった。  そんな様子で、どんなに頑張っても二十代後半にしか見えないものだから、笹の孫と言ってもいいようにさえ見えた。 「ちなみに、血の繋がったちゃんとした親子だかんね」  逸があまりにも不思議そうな顔をしていたのだろう。男はからかうようににやりと笑い、逸の顔を覗き込んだ。言われた言葉に、逸は失礼な態度をとってしまったと焦る。 「あ、いや、疑ったわけでは、」  慌てて逸が否定すれば、男は少し驚いた顔をして、それから今度は吹き出すように笑った。 「はは、別にいいって。慣れてる。かあちゃん晩婚で、頑張って俺を産んだから」  かあちゃんにはまた会いに来てやって、と最後に男は笑い、「まいどあり」と逸を見送った。  その後自宅まで帰りながら、逸はあの男の傷んだ金髪と耳に光るピアス、そしてどこか軽薄そうな雰囲気を思い返し、自分とは関わりのない人間だなと改めて思った。学生時代にもクラスにああいった雰囲気の同級生はいたが、ほとんど喋ったことはない。むしろ、苦手意識を抱いているくらいだ。けれど一方で、「慣れてる」と笑ったあの顔が、胸の奥底でじくじくとなにかを刺激してくるのも感じていた。
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