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2.
あの軽薄そうな男と出会って一週間が経った。今日は定時で上がれるだろうかと逸は時計と睨めっこしながら仕事をこなしていたものの、結局一時間程回ってしまった。
だが、一時間であれば間に合うかもしれない。以前、このくらい残業してしまったときに諦め半分で店を覗いてみたら、ちょうど笹がのれんを下げるところだったのだ。笹は逸の顔を覚えていて、快く中へ迎え入れてくれた。
一応、念のため店に寄ってみよう、と逸は帰宅する足を急がせた。
が、その途中、一瞬だけ脳裏に金髪とピアスがよぎる。
(今日もあの人なのかな……)
けれど、何度も通っているあの店で先週初めて会ったのだ。本人も店番だと言っていた。おそらくあの男が店に出ていることは希なのだろう。きっと会うことも、そう多くはないはずだ。
(俺は、あの男に会いたいのか、会いたくないのか……)
どちらかと言えば、会いたくない。ただ、妙に忘れられないのだ。よくわからないな、と自分でも思いながら、逸は店を目指した。
しかし店にたどり着いてみれば、すでにのれんは下がり、照明も消えていた。それを見て逸はため息をつき、肩を落とす。時刻を確認してみれば、閉店時刻を三十分程過ぎていた。以前はたまたま、他の客との兼ね合いだったのか、長く開いていたのだろう。
「やっぱりだめか……」
そうひとりごちたものの、そもそも、定時で上がれた金曜日だけの褒美と決めているのだ。定時を過ぎてしまったのに店を訪れたこと自体がルール違反だ。
そう言い聞かせるもののそれでも残念な気持ちは収まらず、またひとつだけため息を落として、ようやっと逸は店に背を向けた。
と、そのときだった。
――がらり
頭上から窓の開く音がして、見上げれば、店の二階の窓から先週のあの男が顔を出したところだった。口にはまだ火を点けていないタバコを咥えている。
そして、逸の視線に気がついたのか、つと視線が下がって、それから、目が合う。
どきり、と心臓が跳ねた。そして、どう声を掛けるべきなのか、そもそも声を掛けるべきなのかと、逸は動揺に目をそらすこともできなくなる。そんな逸に、男は少し眉を寄せ、火を点けないまま口からタバコを抜いた。
「なに。不審者?」
「あ、いえ、俺は、」
不審者と問われ、確かに閉店後の店の前でずっと立ち止まっていたらそう思われても仕方がないかもしれない、と逸は慌てて顔の前で手を横に振る。けれどその一方で、男の目を見て、男は逸のことを完全に「知らない人」として見ていることに気がついてしまった。言葉を交わしたのは先週の、ほんの一時のことだ。男はきっと、逸のことなど忘れてしまったのだろう。
(俺は、なんだか忘れられなかったのにな……)
なんだか少しだけ残念に思いながら、逸は顔に笑顔を貼り付ける。
「お団子を買いに来たんですが、間に合いませんでした」
「ふうん」
逸の答えに、男はどこか思案するようにひとつ唸った。そして、手にしていたタバコをなぜか箱に戻してしまう。意味がわからずそれを見守っていると、男はまた逸に声を投げてくる。
「なに食べたいの」
「え?」
驚いて聞き返せば、男は途端にいらついたような顔になり、指で窓のサッシを叩いた。
「どれを買いに来たのかって聞いてるんだけど」
「え、あ、みたらし団子を……」
「はいよ」
戸惑いながらも男の気迫に負けるように応えた逸に、男は無愛想に短く頷く。そしてすぐに中へと姿を消し、ぴしゃりと窓を閉じてしまった。
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