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   *  ──変えるなら、変わらなきゃ。  って、なんかの広告コピーかよ! って感じだけど、でもきっとそういうことなんだなって思って俺は一念発起した。  だって、このままじゃいけない。ひと月に一度のデートがホテル直行なんて、そんな関係のままでいたくない。もっと会いたい。もっと一緒にいたい。もっと近くなりたい──。  だったら、まず俺が行動しよう、と思ったのだ。  そして出した俺の結論は〝一人暮らし〟だ。  ……どうせ俺は単純な男だとも。  でもそれ以外に思いつかなかった。  俺が一人で暮らすアパートがあれば、ホテルとかで会うよりももっと、なんていうか近づける気がする。もっと自然に、気安く、一緒にいられる気がする。  実家の親を説き伏せるのは簡単だった。というか、ほとんど実力行使で「一人暮らしするから」宣言をして出て行っただけなんだけど。割と放任主義の親だから、ありがたいことに「あ、そう」だけで済んだ。  場所は実家より会社に近く、かといって会社には近すぎないところ。  我ながら俺は、自分の行動力を褒め称えたい。一人暮らしをしようと決めて、部屋を探し、引っ越すまで、二週間でやり遂げた。  あれこれ事情や動機を聞かれても、面倒なので周りには内緒にすることにする。  思い立って実行するまで二週間の間に黒峰さんとデートをする余裕はなく、結局事後報告のようなかたちで、会社で偶然二人っきりになったタイミングを見計らって、俺は彼に「一人暮らし、始めました」と告げた。  場所は廊下の端、喫煙ブース脇の自販機の前だった。まあ、偶然というか、黒峰さんが席を立ったのを見計らって俺が追いかけたんだけど。  俺の告白に黒峰さんは言葉もなく、目を丸くした。  そんな驚いた顔をされると、俺もそれ以上なんて言っていいか分からず、つい黙り込んでしまう。黒峰さんは何度か目を瞬かせて、それからふと俺から視線を逸らし、思い出したかのように目の前の自販機に小銭を入れていた。 「……いつから?」 「え、あ、日曜に荷物入れて、月曜から」  へえ、と黒峰さんは短い相槌を打ち、屈んで取出口に手を突っ込んでいる。  ──なに、その反応。  俺はぞっと胃の腑が冷えるような、震えるような感じに息を詰めた。 「おまえ、なんにする?」 「え?」 「引越し祝いに奢ってやるよ、コーヒー微糖?」  はい、とわけも分からず頷けば、黒峰さんは俺に背中を向けたまま自販機に小銭を投入する。呆然と俺は彼の指が自販機のボタンを押し、また屈んで取出し口に手を差し入れるのを眺めていた。  渡すときになって、ようやく黒峰さんが俺を振り返ってくれた。いつものように、どこか悪戯っぽく唇の端を歪ませて。 「で、おまえはいつ俺を招待してくれんの?」  ……俺の部屋に、黒峰さんがやってくる。  それは大事件だ。  もちろんそれを狙って一人暮らしをしたわけなんだけど、やっぱり自分の部屋に恋人を連れ込むっていうのは大事件だった。今までホテルで散々いろいろエッチなことはしているけど、やっぱり自分の部屋というのは全然話が違う。たとえそれが引越してきたばかりで、物もなんにもない部屋だとしても。  部屋に来るという約束をしただけで、変に胃が浮くような感じがして、俺はまったく落ち着かない様子で業務終了を迎え、最寄りの駐車場で待ち合わせた彼を部屋に案内した。  ……変に、とかじゃなくて、まあ、あれだ。浮かれている。完全に浮かれている。  黒峰さんが来ることになったのは、引越しをした翌週の金曜の夜だった。  部屋は古くて安いアパートで、地方の田舎のアパートの家賃なんて多分都下住まいからしたら目が飛び出る安さで、それでも軽量鉄骨だから多少築年数が経っていてもそれなりにつくりはしっかりしている。  二階建てアパートの中央に作られた共有階段をのぼって、二階の左手奥の部屋が俺の部屋だ。引越してきた当日、隣の住人に挨拶をしたが、どうやら相手は近くにある工業大学の学生のようで、つまりはそういう学生向きの四畳半一Kの部屋ということだった。  近くのレンタルビデオ屋の駐車場にこっそり車を止めて、黒峰さんを案内すれば、アパートの目の前でまず「へえ」と言って、階段を上ったところで「はああ」と嘆息し、部屋に入ってすぐのミニキッチンを見て「一人暮らしのアパートだなあ」と良く分からない感心の仕方をした。 「なんだ、内装は思ったより全然きれいだな。こういう部屋なら多少古くても悪くない」 「あ、はい。なんか内装リフォーム済み物件って」 「家賃いくら? っていうかおまえ、引越するなら言えよ。言えば手伝ったのに」 「……どうせ荷物ほとんどなかったし」  というか「一人暮らしします」と黒峰さんに告げることが、なんだか自分の欲望が見え透くような気がして恥ずかしかったからなかなか言えなかったのだ。……まあ、結局は彼を招く気満々なのだから、最初に隠したって無意味だけど。 「本当になんにもねえなー。布団とコタツとテレビだけかよ。なあ、洗濯機ないんだけど、どうしてんの」 「そのうち買います」 「どうせ実家持って帰って洗ってんだろ。なんのための一人暮らしだってーの。お、冷蔵庫、中見ていい?」  冷蔵庫の中は缶ビールにワイン、コーラ、卵、ベーコン、マーガリンという品揃え。  いいよ、という返事を待って開けた冷蔵庫の扉を手にしたまま、中を覗いた黒峰さんが目を丸くして、それから呆れたように溜め息をつきながら扉を閉めた。 「せめてコーラじゃなくお茶か水にしろよな。中身、学生かっつーの。もっと真っ当なもん食えよ」 「すいません」  なにを謝っているんだろうと思ったが、俺は部屋の真ん中で頭を下げている。 「飲みますか。ていうか、冷凍ピザとかありますけど、食べますか」 「バカ、飲まねえよ、車だぞ」 「……とりあえず、座りませんか」  そう声をかけたけれど、「うん」と頷きながら、なぜか黒峰さんは冷蔵庫のところに立ったままで、その姿が部屋の中に入ることを躊躇っているように見えて、俺はなんだか気恥ずかしいような気がしてきた。  入ってきたときの感じがいつも会っているときのように軽くて穏やかな感じだったから、安心してたけど、もしかして本当はドン引きしてる?  勝手に一人暮らしなんか始めて、呆れてる? ──失敗だった? 「えっと、黒峰さん?」  俺は自分から近づいて、おそるおそる黒峰さんに手を伸ばす。  差し出された俺の手を見て、びくりと怯えたように黒峰さんが肩を震わせたのを見た途端、俺はほとんど発作的に彼を自分の腕の中に抱き込んでいた。  なにごとか口走ろうとした黒峰さんの唇を自分の唇で塞ぐ。その勢いで黒峰さんの眼鏡がずれたけど構わず、すぐに舌を入れ、深く絡めて口腔を嬲りながら、左腕でがっちりと腰をホールドして、右手で彼の尻を掴んだ。 「っ、と、待て、大神……っ」  顎を上げるようにしてキスから逃れ、そう黒峰さんが制止してきたけれど、止められるわけがなかった。 「……なんで逃げるの」 「逃げて、るわけじゃ……、あっ」  片手でシャツをかきあげながら、スラックスの上から尻の割れ目を指先で何度もなぞりあげる。それだけで彼が身体をぶるりと震わせ、太ももに押し当てた彼の下肢が熱く反応するのが分かった。  ……ほら、感じやすいくせに。気持ち良いこと好きなくせに。本当はやりたいくせに。  なのに腕の中でもがいて、黒峰さんは逃げようとする。 「ダメですよ、今日は時間あるって、言ったじゃないですか」 「……言ったけど、そ、じゃなくて!」 「我慢できません」 「っ」  俺は強引に彼を部屋の中に押し入れて、壁に追いつめた。壁に背中をつけて逃げられなくなったところでもう一度キスをして、それから身体を重ねた。  意図的に自分の欲望を彼のそれに押し当てる。  俺の方はもう硬くなっていて、その硬度を感じさせるように腰を動かした。  ……本当はこんなつもりじゃなかった。ただセックスをしたいんじゃなくて、普通に自然にもっとありのままの黒峰さんと過ごしたくて。 「っ、大、神……っ」  泣きそうな声で黒峰さんが俺のことを呼んで、ぎゅっと両手で俺のシャツを掴んだ。  それで、もう止める必要もなくなった。  場所が変わるだけで、こんなに反応が変わるのだと、俺は知らなかった。  家具のない殺風景な部屋の壁際で立ったまま始めた行為に、黒峰さんは今までに見たことのないような恥じらいを見せて、声を押し殺しながら乱れた。  その淫靡な姿に煽られて、立ったまま指だけじゃなくて俺の欲望そのものを入れて無茶苦茶にしてしまいたくなったけれど、彼が耳元で小さな声で「電気消して、床で」と言ったから、その可愛さに負けて、俺は言う通りに従った。  無造作に敷布団一枚広げた狭い場所で、俺は彼を存分に貪った。  彼に触れること自体、一カ月以上ぶりだということもあるけれど、俺の部屋で黒峰さんが俺を受け入れて、声を出さないように堪えながらも淫らに腰を振る姿にたまらなくなって、長くもっと長く彼を抱いていたくなって。  十代の子どもみたいにサカっている自分が恥ずかしいくらいだったけれど、でも黒峰さんも同じくらい興奮して、お互いに何度も達して、最後は力尽きたみたいに二人でもつれたまま布団に倒れ込んでいた。  しばらくかける言葉もなく息を整える。  胸の上に感じる、汗ばんだ熱っぽい身体が心地良くて、このままお互いの体温を感じていたら、なんだか眠ってしまいそうだ──と、思いきや。  眠りに落ちる瞬間を狙ったかのように、がばりと突然、黒峰さんが身体を起こした。 「おい、シャワー借りるぞ」  立ち上がって床に落ちた眼鏡を拾うと、全裸のままユニットバスの方へ向かっていく。 「タオルあるか?」 「……ありますけど」  返事だけ聞いて、彼はさっさと小さなユニットバスに入っていった。  もちろんタオルは用意している。当たり前だ。なんのために黒峰さんを部屋に誘ったと思ってるんだ。──と思ってから、俺は頭を抱えた。これじゃあ俺がセックスするためだけに部屋に誘ったみたいだ。  いや、そうじゃなくて、新しいスエットの上下とか、パンとか卵とかコーヒーとか用意して、俺はこの人に泊まっていってもらいたくて。もっと一緒に長い時間を過ごしたくて。  それを言わなきゃ、と思った。  もっときちんと俺の気持ちを伝えて、分かってもらいたいから──。 「おーい、タオルくれよ」 「──あ、はい」  呼ばれて俺はタオルを渡しに立ち上がった。  カラスの行水の勢いでシャワーを浴びた黒峰さんは、真新しいタオルで身体を拭いて部屋に戻ってくると、床に落ちていた自分のパンツを拾って身につけている。  その行動の意味は明らかだ。そんな予感はしていたけど。 「……黒峰さん。泊まっていかないんですか」 「そんなわけいかねーだろ」 「でも明日、休みだし。もう二時なんだし、」 「車も無断駐車しっぱなしだし?」  知っている。この人は俺のお願いなんかで簡単に自分の意思を変えたりしない。  だけど胸の内にひどく暗く重苦しい感情がもやもやと渦巻く。だって金曜の夜で、もう二時過ぎていて、だったら朝になったって同じだろって思うし、それでも家に帰ろうとする必要がなにかあるのか。なにか言えない事情でもあるのかと思いたくもなる。 「あの、せめて、もうちょっとゆっくりしていきませんか」 「バーカ。おまえ今日、どれだけ時間かけたと思ってんの? 絶倫かあ?」 「ちがっ、」  ふざけるような声に慌てて異議を唱えたけれど、黒峰さんはちょっと笑って肩をすくめると、そのままさっさと服を身につけていく。  俺はそれをパンツ一枚の姿で呆然と見つめて。  ──どうして。なんで帰るの。なんで俺をおいていくの。まるで逃げるみたいに。  口から言葉が零れ落ちた。 「黒峰さん、まさか、家で妻が待ってます、とか言わないよね?」 「────」  シャツのボタンを留める手を止めて、黒峰さんが呆然と顔を上げる。  一瞬の間のあと、ぶはっと彼は盛大に吹きだすと、腹を抱えて爆笑し始めた。 「な、なんだ、その発想……っ、おまえ、面白すぎる!」 「ちょっ、あのね、全然面白いとかじゃなくて」  俺は本気で悩んでるんだけど!  そこまで大爆笑されるとこっちが恥ずかしくなって、俺はいたたまれなくなった。 「おまえ、やっぱり可愛いなあ。心配するなよ、俺、今まで結婚したことないから」 「……じゃあ」  なんで。  その一言が喉で詰まった。  呆然と俺が言葉を失っている間に、黒峰さんは衣類を身につけ、最後にネクタイをシャツの胸ポケットに突っ込んだ。それから床に落ちた時計と財布と鍵を手に取る。  慌てて立ち上がって、俺は時計をはめるその手首を捕らえていた。 「どうした」  きょとんと眼を丸くして、黒峰さんが俺を見上げる。  その手をねじり上げて、着込んだばかりの服を剥ぎ取って、無理矢理に押し倒して貫いてここにつなぎ止めて、どこへも行かないようにしたい。 「なんだよ、送るなんて言うなよ? おまえもとっととシャワー浴びろ。風邪ひくぞ」  だけど黒峰さんが、そう言って優しく笑うから。  俺は手を離す。 「また来週な」 「……はい」  じゃあ、と軽く手を上げて、黒峰さんはあっさりと俺の部屋から出て行った。  ガタンと音を立てて閉まった玄関の扉を、俺はしばらく見つめた。  彼は俺のキスに応えるけど、抱擁に応えるけど、俺のことを可愛いと言うけど、だけど俺と一緒の時間を過ごしてくれない。  俺だけの黒峰さんには、なってくれない。  毎日なんて、二十四時間なんて、贅沢は言わない。  ただ少しだけ、あともうほんの少しだけ、俺のために時間を割いてほしい。  そう思って一人暮らしを始めたのに、黒峰さんが部屋にやってきて、それをどう思ったのかは分からなかった。セックスはいつも以上に盛り上がったようにも思えるけど、本当はどう思ったのか分からない。  最初に見せた戸惑いと、すぐに帰っていったその真意が──。 「……全然わかんねー」  煙草の煙を吐くと同時に、そんな呟きが思わず零れ落ちる。  週明け朝の喫煙ブースだった。  うちの会社の始業は八時四十分で、俺はいつもぎりぎり出勤しているのだけど、今日は珍しく早く十五分前には会社に着いていた。というのも、いつも黒峰さんが二十分前とかに出社していると知っていて、早くひと目でも会いたかったからなんだけど。  そうやって早く来た日に限って、黒峰さんは席にいないし。  始業前から物流課や生産管理課に顔を出しているのか、人気者だから休憩所で朝から誰かに掴まっているのか──と思って、喫煙ブース横の休憩所に顔を覗かせたけど、いないし。なんだか力が抜けて、朝から一服することにしたのだった。  別にしゃべらなくてもいい。  顔を見るだけで。軽く目線で挨拶もらうだけで。……せめてメールの一言だけでも。  だけど黒峰さんからメールはこない。  というか、昨日送ったメールにまだ返事がないというのは本気でどうなんだろう。  送ったのは別に大した内容のメールじゃなかった。土曜は会社のサッカーチームの練習があってそれに参加して、そのメンバーで夜まで飲んだから日曜は昼ごろになってようやく起きて、晴れていたから久しぶりに車を洗った。そういうことを短くまとめて《黒峰さんはなにしてた?》と最後に付け加えて、夕方に送った。本当に他愛もないメールだ。  だから、一晩返事がないぐらいで苛々する俺の心の方が、狭いのかもしれない。  それでも気になるものは気になるし、せめて朝一番で顔見たいと思ったのに、席にはいないしで、俺はすっかり月曜の朝一番からやる気を失っていた。  嫌われたとか、飽きられたとか、そういうわけじゃないとは思うんだけど。 「お、珍しい。早いじゃん、どうしたの」 「──鈴木」  無意識のうちに頭を下げて床を見つめていた俺は、かけられた声に顔をあげる。  鈴木カナの席は黒峰さんの斜め前だ。かといってカナに「黒峰さん、どこにいるか知ってる?」なんて朝一番から聞くのはなんだか気が引ける。 「珍しくねえよ。俺だって早く来ることあるよ」 「ふうん。あ、そういえば今日〝便り〟入稿なんでしょ? 夕方までに用意できそう?」 「〝便り〟? ああ、それはたぶん大丈夫だけど」  得意先の担当者から商品写真や情報を支給してもらって、それをデザイナーがデザインして、先方担当者とデザインチェック・文字校正などやり取りをして、オッケーがもらえれば、印刷の前工程へデザインデータ入稿して、印刷データをつくる。  このデータ入稿以降の印刷工程に関わる手配については、昔は営業自身が行っていたが、最近では営業サポート課の方で任せることになっている。要するに発注・手配業務などはサポート課に任せて、その分、営業は仕事取ってこい、ということだ。  俺が担当している〝便り〟は定期物だけに、そういうフローはしっかりできていて、営業サポート課とうまく連携が取れているわけだが、本来、担当は黒峰さんだ。  俺は訝しく顔をしかめて、カナを見やった。 「なんで、おまえがそんなこと言ってんの」 「それ、今日私やるから。入稿データは私にちょうだいね」 「は?」  問い返した俺はたぶんかなり間抜けな顔をしていただろう。  ぽかんと口を開いて、指に挟んだはずの煙草が落ちそうになるのも気付かなかった。 「黒峰さんだろ、担当」 「うん。だけど黒峰さん、なんか今日休みだって」 「はあ?」  もう一回、俺は間の抜けた問いを返していた。胸の奥をなにかがざわりと触る。 「なにそれ。風邪?」 「さあ、知らない。私は課長から休みだからフォローしろって言われただけだから」 「…………」 「しっかし、あの人、本当にきちんとしてるよねー」  呆然としたまま、俺は鈴木の言葉に視線を上げた。 「進行中の仕事、全部デスクにきれいに整理されてるんだもん。今日やるべきこと、明日やるべきこと、担当してる仕事のスケジュールも完璧。ふわっといい加減そうに見えるのに。ああいう先輩がいると、私が無能に見えそうで本当にいやになっちゃうなー」  冗談なのか本気なのか、カナがそんなことを零したが、俺はなにも言えなかった。  じわじわとカナの話が自分の中に入ってくる。  黒峰さんは今日、会社を休む。風邪なのか、なんなのか理由は分からない。だけどデスクはきちんと整理されていたらしくて。でも先週の金曜日はデートで、確か「途中だけどあとは月曜にする」って言っていたのに。  もしかして、今日は最初から休むつもりだったんじゃないだろうか、とふと思う。  でも、だったら、なんで俺には連絡がないんだろう。 「あ、そろそろ時間。ミーティング始まるよ」  煙草を吸うことも忘れて、ぼんやりとしていたら、隣にいたカナがそう声をかけて身体を起こしていた。慌てて、俺も半分以上灰になった煙草を灰皿に突っ込んだ。  営業フロアに戻る途中で内ポケットから携帯を取り出したが、メールは入っていない。  朝一番の課内ミーティングが始まるまでに俺は短いメールを送った。  《風邪? 大丈夫?》  ミーティングを終えて、朝のうちに済ませなければいけない社内手配に協力会社への手配などを済ませれば、あっという間に時間が過ぎて、午前中にアポを入れている打ち合わせに出かけなくてはいけなくなって、俺は資料をまとめて外を出た。  メールの返事は、昼前になってようやく返ってきた。  《心配かけてごめんな。大丈夫。またメールする》  なんで、と思う。休むなら休むって俺には一言あってもいいのに。なんで、どうして、黒峰さんはなにも言ってくれないんだろう。  ──その理由は、夕方、会社に戻ってきて分かった。  今日の内にデータ入稿する案件〝便り〟について、客先で最終チェックバックをもらい、そのままデザイナーのところへ持って行き、それから他の打ち合わせなどを数か所回ってから会社に戻った。  そうしている間にデザイナーから修正されたデザインデータがメールで届いていて、それをまずチェックするのに夢中になっていたから、その情報に気づくのに俺は遅れたのだ。 「ねー、大神、データ何時頃になりそう?」  五時半を回ったところで、そうカナが声をかけてきて顔を上げる。 「あー、悪ぃ、あと一、二時間ぐらいかかるかも」 「わかった。準備できたら教えて。それと、あとでいいから、今週なんか動くものあったら教えて」 「──は?」  すぐに校正に戻ろうとした俺は、朝と同じようにぽかんと顔を上げ直した。 「ほら、今週いっぱいは黒峰さん、来れないみたいだから。私が代わり」 「……なんの話?」 「あ、まだイントラ見てない? ……訃報、お父様」  俺は慌ててマウスを握っていた。常に自席パソコンは情報共有の社内WEBサイトがすぐ見られるようになっている。よく見ると、その掲示板機能に「訃報」が入っていた。  《業務部営業サポート課 黒峰洸氏の御尊父 黒峰陽二様が、心不全のため……》  そこには通夜・告別式の日時・場所が記されている。  言葉が出なかった。  なんだこれ、と思う。だから今日休みだったのか、とも納得する。 「そういうことだから。あとででいいし。とりあえずは今日の入稿データよろしくね」  パソコンを睨みつけて停止してしまった俺のことをどう思ったのか分からないが、カナはいつものさっぱりした口調でそう言って、自席の方へ戻っていった。  そうだ、まず入稿をしなければいけない。  なにをおいても、それが最優先事項で、俺はどこかぼんやりしたまま目の前の校正に意識を戻した。  知らなかった。  そんなこと俺は知らなかった。聞いていなかった、なにひとつ。  今日優先でしなければならない入稿を終えると、それでがっくり力が抜けて、俺は喫煙ブースに向かっていた。 「おお、大神、ばりばり働いてるか?」  喫煙ブースには先に源田さんがいて、そんなふうに声をかけてきた。  ……源田さんは社歴も長く、いろいろと社内情報に詳しい。  俺は少しだけ迷って、だけど意を決して口を開いた。 「あの、……見ましたか、黒峰さんの」 「ああ。若いよな、黒峰のお父さんとなると。まだ六十ぐらいだろ」 「ですよね」 「まあ、ずっと入退院繰り返してたみたいだから、黒峰も覚悟はしてただろうけど」 「……そうなんですか? 俺、知りませんでした」  ぼんやりと呟くように言えば、源田がちらりと俺の方を見て、わずかに苦笑めいた笑みを漏らした。 「ああ、おまえ仲良いもんな。けど、確かにあいつ、仲良い奴にもそういうこと言わないやつだからなあ。俺は、ちょうどあいつの父親が最初に入院した頃に、一緒に仕事していて、同行しているときにいろいろあったから、それで知ってたけど。他の奴はほとんど知らないんじゃないか。妹さんが東京かどっかに嫁に行ってるから、母親とあいつとで看病してるらしくって、結構大変だったみたいだな」 「────」  ずっと彼は父親の入院を支えてきたのか。 「通夜、行くだろ」 「はい」  源田さんの問いかけにはなんとか頷き返すことができた。  電話をするのは憚られたからメールにした。だけど、こういうとき、なんてメールすればいいんだろう。言いたいことはいっぱいある気がするのに、言えることが見当たらない。 《御愁傷さまです。ずっと知らなくてごめん》  悩んで結局それだけ送った。返事は一時間後に来た。 《ありがとな》  それだけのメールに、俺はなぜか泣きたくなっていた。
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