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メールの返事が遅いとか。最近まともなデートをしていないとか。仕事ばっかりで俺のこと後回しにされている気がするとか。
そんなことを言い出したらきりがない。
もちろん分かっている。
俺だって普通に仕事に忙しいわけで、日中営業に出てお客さんと打ち合わせをしたり、夕方会社に帰ってきて生産管理課と納期交渉をしたり、協力会社に電話で無理なお願いをしたり、鬱々と細かい文字の詰まったパンフレットを校正したりするわけで、いつも恋人のことを考えているわけじゃない。
お互い仕事をしていれば、いろんなことがお互い様だし、そんなこと今さらだけど。
だけど俺は思う。思ってしまう。
──メールの返事くらいくれよ、頼むから。
ついくせのように、ため息交じりに紫煙を口から吐き出しながら、片手で携帯のメールを起動して、俺は受信ボックスをチェックした。もちろんメール着信音も鳴っていないのに、数分前にチェックしたときと内容が変わるわけがない。
一方で送信ボックスの方には今日の二時頃に送ったメールが残っていた。
《今日早く帰れそう。夕飯一緒できない?》
返事がないのは忙しいせいなのか、なんなのか。……いや、忙しいんだよな。大体いつも忙しい人だし。
それにしても、デートのお誘いに対する返事はもっと早くくれてもいいんじゃないだろうか。イエスでもノーでもメールなら一行あれば充分だ。今日会えないのなら、明日しようと思っていた仕事を今日中に片づけて、明日以降に再チャレンジをするのに。
だけど、まだ返事のメールは来ていない。
相手がまだメールを読んでいないのか、読んだ上で忙しくて返事を忘れているのか、それとも返事に迷っているのか、それすら分からない。分からないから、返事が来るまで延々と期待と不安がもやもやと胸に渦巻いたままになる。
……ダメならダメでもいいから、せめて一言返事してくれたらいいのに。
そう、また盛大にため息をつきたくなっていたところに、不意をついて横合いから声をかけられた。
「ねえ、大神は聞いた?」
「ん?」
「三年目の浮気が本当にあるんだって話」
「──は?」
突然振られた突拍子のない話に、俺はぽかんと顔を上げた。
大神というのは俺のことだ。大神勇次。声をかけてきたのは、同期仲間の鈴木カナだ。
場所は会社の片隅にある喫煙ブースで、時間は夕方の五時四十五分。
俺は十分ほど前に外回りから戻り、ひとまず電話メモだけチェックして、一服しにここに来たところだった。顔を合わせたときに「おつかれ」とお互いに挨拶をしたが、彼女も携帯に夢中になっていたから、隣に並んでそのまま放置していたのだった。
もう携帯はいいのか、カナは顔をあげて、ふと俺の方を見る。
「この間、突然ここで源田さんに言われたんだけど、なんか三年目の浮気って歌があって、それを持ち出されて、三年目の浮気は本当にあるんだぞって。その話、大神も聞いた?」
「それ、なんかの例え話?」
「いや、なんだろう。源田さん最新の恋愛論?」
源田というのは、俺たちの務める印刷会社のデザイン課課長をしている四十代後半の男性社員のことだ。デザインセンスはいいし、彼自身も雰囲気があって格好はいいのだが、よくこの喫煙ブースで若い社員を捕まえて、長話をすることで有名な人だった。
仕事とは、人生とは、恋愛とは……。
語られたところで頷きながら聞き流す若い社員がほとんどだから、まあ、語りたいだけ語ればいいとは思うのだけど──しかし、三年目の浮気?
俺はなんとなくメール画面を消した携帯をぎゅっと握っていた。
「全然意味分からないけど、なんなの?」
「なんか、源田さん曰く、恋愛の有効期限は三年ぐらいで切れちゃうんだって。だから付き合い始めたら三年以内に結婚しないとダメなんだ、とか」
「……ふうん?」
訝しく相槌を打った俺を一瞥して、カナは肩をすくめてみせる。
「私の意見じゃないよ、源田さんの話。欲求するのが恋愛で、奉仕するのが結婚で、欲求には有効期限があって、奉仕には期限がないんだって。源田さんの経験上、その期限が三年なんだって。で、おまえは明日恋人が半身不随になっても介護できるかって聞かれた」
「それってある意味セクハラじゃねーの?」
「セクハラとまで言わないけどさ。そういうことを私に言うってどうなんだと思う?」
そう顔をしかめる鈴木カナは、近年肩身の狭い喫煙者の中でも更に少数派の喫煙女子で、俺の同期でもあり、可愛い顔をして優秀・有能で、その頼もしさから後輩たちから姉御呼ばわりされている女子だ。その実、きちんと乙女で、大学から付き合っている彼氏がいるという話で──つまり、三年をゆうに超えた彼氏がいることになる。
確かに、そういう相手にそういうことを言うのは、どうなんだろう。
「やっぱりセクハラだろ。早く子どもつくれとか言われなかった?」
「それは言われなかったけど。……大神って、今、彼女いないんだっけ」
「……いないけど、なに」
返事に一瞬変な間が空きそうになって、俺は煙草を吸って誤魔化す。
「うーん。だからなのかな。別に恋愛論でも結婚論でもなんでも聞かされる分には全然構わないんだけど、そういうのを女子限定でするからセクハラっぽいんだよなー」
言われた内容よりも、男女によって言った・言わないがあることが気になるらしい。
そういう問題か? と隣を振り返ると、意識せず目と目が合った。
──で、おまえらは、三年目を超えて、浮気はしたの?
カナの目を見たらそんな疑問が湧いたけれど、それはさすがに聞けないな、と思ったところで、ふっと視界に人影が横切る。
その瞬間、カナとの話はどこかへすっ飛んでいた。
あ、と目線を上げたところで、現れた人影が喫煙ブースを囲む透明ガラスを拳で軽くゴツンと叩く。それから中にいる俺に向かって、ちょいちょいと指で合図を送ってきた。
「金香堂さんから急ぎの電話。すぐ折り返して」
「っ、あ、はい!」
俺は跳ねるように身体を起こして、煙草を灰皿にねじ込んだ。
カナへの挨拶もそこそこにブースを飛び出る。だけどその前に、伝言をしてきてくれた人はさっさと歩き始めていて、慌ててその背中を追いかけた。
「ちょっ、置いてくのはナシで!」
そう声をかけても白いシャツの背中は止まってくれなくて、廊下の途中で追いつき、隣に並んだところでようやく俺をちらりと見てくれる。
身長差があるから、ほんの少し顎をあげて黒縁眼鏡の奥から見上げてくるような感じ。
こういうとき、俺は本当に自分の高い身長に感謝したくなる。なんていうか、ちょっと角度によってはまるで上目遣いで縋りつかれているような気がして、それがすごく──。
「帰ってきて早々さぼってんじゃねーよ」
「…………」
──冷たい。
うう、とめげそうになる気持ちを奮い立たせて、俺は口を開いた。
「煙草、一本分だけですよ」
「一日、二十本も三十本も吸ってるのに、まだ必要なのか?」
「今はそんなに吸ってませんってば。最近は一日十本ぐらいだし──っていうか」
なんの話をしてるんだ、とはたと我に返って、俺は会話を打ち切った。
一日何本吸っているかなんて、どうでもいい。会ったら言いたかったことは別にあって。
俺は隣に、ちらりと目を向けた。声は少しだけ控えめになる。
「……あの、俺、メールの返事、まだもらってないんですけど」
「だってメール面倒くせえんだもん。飯、たぶん大丈夫だよ。何時にする?」
「えっ。あ、じゃあ、七時? 八時?」
「その間とって、七時半にしとくか」
言われたとほとんど同時に営業フロアに辿り着いていて、彼がそのまま俺の方を振り返りもせずに去っていきそうになったから、俺はつい「黒峰さん!」と呼びかけていた。
彼は足を止め、首だけを少し振り向かせて、少し悪戯っぽく唇の端を持ち上げて。
「金香堂、とっとと折り返せよ」
それだけ言って、自分の席に戻っていった。
俺はちょっと呆然とした。
メールを送ったのが二時頃で、今はもう六時近くて、俺はその間ずっと悶々と返信メールを待ち続けていたんだけど。もっと言うなら、このデートだって久しぶりで一カ月ぶりぐらいで、俺はOKもらえるかどうか、ものすごくドキドキして待っていたんだけど。
面倒くさいって。面倒くさいって言った?
それってどうなの。
──俺、一応、あんたの恋人だよね!?
業務部営業サポート課の主任の黒峰洸は、俺の恋人だ。
……メールの返事が来ないことはたびたびあるけど、まともなデートを最近全然していない気もするけれど、一応、たぶん付き合っていることには間違いはない。
五つ年上の同じ会社の先輩で、三十二歳の男。
鈴木カナに彼女はいないと言ったが、つまり彼女ではないわけだから嘘はついていない。まあ、彼氏、という言い方もなんだか違う気がするけれど。
……もともと、付き合おう、とかそんなしきりがあったわけじゃなかった。
ノリと言ったらすごく語弊があるけど、流れというか、空気というか、なんとなくそういう感じで始まった関係だ。
きっかけは会社の親睦バーベキューだった。
俺が営業部に配属になったときから黒峰さんはサポート課にいたから、仕事ではお世話になっていたし、それまでだって親しくしてもらっていたけれど、偶然斜め前の席になって一緒に話をしていたら、仕事しているときとはなんか雰囲気が違うなと気がついた。
それがどことも言えず、けれどすごく気になって、なんとなく目を上げるたびに目が合ったような気がして、そのあと会社の駐車場に戻ってきて解散するときにもお互いちらりと振り返ったのが分かったから、それでもうそういう気持ちになっていた。
バーベキューの後に何人かで二次会まで行ったから、解散したときにはもう深夜だった。
すぐに自分の車には向かわず、一度会社の敷地内の自販機まで行って時間を潰し、みんながいなくなるのを待ってから、俺は真っ暗な駐車場の中で車を探した。
車は赤色の〈MINI Cooper〉。
それは俺のじゃない。
その赤いお洒落な車は会社の広い駐車場の片隅にエンジンをかけて停まっていて、運転席の窓を軽く叩けば、待ち構えていたようにウィンドウが開いて「乗れよ」と言った。
素直に従って助手席に回って乗り込んだけど、それでもまだこの展開に俺は半信半疑で、だからやっぱりまだポーズが必要で、酔いを心配したように運転席に向かってペットボトルの水を差し出していた。
「水、飲みますか」
「おう、サンキュー。気がきくな、おまえ」
「代行、呼んだんですか」
車社会の地方では、飲み会のあとに代行運転サービスを呼ぶことが多い。
「いや、まだ呼んでない」
「なんで」
反射的に問い返したけど、本当は分かっていた。
俺が待っていたように、この人も待っていた。
俺の問いかけにすぐに返事をせずに、黒峰さんは俺の渡したペットボトルを傾けて水を飲んだ。ゆっくりと一口、嚥下する喉を、俺はぼんやりと見つめた。その視線に気がついたかのように、ふと振り返って笑った。
黒縁眼鏡の奥にある眼差しが、どこか悪戯っぽく瞬いて。
「なんでだと思う?」
「……なんて答えればいいんですか、そういうの」
「じゃあ、答えなくていいよ」
意地悪だな、と思った。
水に濡れた唇が凶悪だな、とも思った。
答えなくていいと言われたから、もう俺は行動に移すしかなくて、身体を起こして運転席に覆いかぶさった。
最初は触れるだけのキス。唇を離して、間近で目を合わせれば、黒峰さんが「正解」と言うみたいに小さく笑って、それを見たらたまらなくなって、すぐ深く唇を奪っていた。
舌を差し込んで、吸ったり絡めたり、とろとろに蕩けるようなキスをして、でも〈MINI Cooper〉っていうのは本当に小さくて狭くて、油断すると天井に頭打つし、それ以前にお互いに酒を飲み過ぎていたし、このまま車内でそれ以上はできなくて。
明日も会いたい、と言ったのは自分だ。
いいよ、と軽い返事が返ってきた。
男だということも先輩だということも分かっていたけれど、どうしようもなくそういう気分になった。止まらなかった。翌日、明るい陽の下で待ち合わせをして会って、でもすぐに陽の当らないホテルの部屋に入って、バカみたいに一日中セックスをした。
そうやって関係が始まって。
──もうすぐ、丸三年になる。
会社では毎日顔を合わせるし、仕事でサポートしてもらうこともあり、同僚としても普通に仲良くしているから、毎日会えなくてしゃべれなくて寂しいとか、そういうことはないわけだけど。実際に恋人として顔を合わせるのはひと月に一回か、二回程度だ。
たまのデートも、飯を一緒に食べてホテルに行くだけ。ホテルに行けば、当然やることは決まっている。……いや、もちろんやることに全然異論はないけれど。
どちらかが「あ、今日は早く帰れる」と思ったら相手にメールをして、お互いに時間の調整がつきそうだったら、会社から少し離れたところにある自由に使える駐車場で待ち合わせ、どちらかの車で店やホテルに移動する。
そういうのが定番になっている。
いつからそうなったのか、というと、よく分からない。
付き合いたてのころはそうじゃなかった気がする。でも三年も経つと、いつなにがあって、どんなデートをしたのか、曖昧になっていく。お互いにあまりこだわりがないせいか、それとも男同士だからなのか、誕生日だってクリスマスだってまともに祝ったことはない。
……一緒に出かけるデートは減った。メールの数も減った。
なんでこんなことになったんだろう。
これが倦怠期というものだろうか。……でも、倦怠期というほどお互いに興味がないわけじゃないし、俺の気持ちは全然冷めてはいないと思う。むしろ会えない時間が長くなればなるほど、いっそう高まっていく気がする。
好きだと思う。会えれば嬉しいし、セックスも気持ち良いし、いつだって会いたいと思う。だけど不安になる。
このままでいいのかな。黒峰さんは、このままでいいと思っているのかな。
──よく分からない。
いつも駐車場では黒峰さんの車の右隣に停める。
そうすれば彼が自分の車の運転席から、一歩で俺の車の助手席に移動できるからだ。先に車を停めていた黒峰さんは、いつものようにすぐ目を盗む必要もないほどに真っ暗な駐車場で、俺の車に乗り込んできた。
「お、つ、かれ!」
そう言って助手席に身体を沈めて、ふうと大きく息を吐く。
その姿がふとひどく疲れているように見えて、俺はどきりとした。彼はいつだって忙しくてたびたび帰りも遅くなっているし、疲れているのは当然なんだろうけれども、そうして俺の前で──というか他人の前で、疲労感をあからさまにするのは珍しい。
「なに、疲れてるの?」
「ん? うん、まあなー、最近あんまり寝れてないんだよ」
いつもの気の抜けたような軽い調子で言いながら、黒峰さんがふと眼鏡をとってしょぼついた目をこする。その仕草がまるで顔を洗う猫のようで可愛いと思う一方で、そんなふうに疲れている彼を見るのはなんだか切ない。
「寝れてないって。疲れてるなら、飯だけとかお茶だけとかにする?」
「あ、うん。っていうか、ごめん。今日はちょっと無理になった。すぐ帰らなきゃ」
その言葉にどきりと心臓が跳ねた。
約束をしたときはそんなことは言ってなかったはずだ。今日会えると思ったから、ひとつやらなきゃいけない見積を明日の朝一番にして、会社を飛び出てきたのに。……でも、そんなのは俺の勝手な都合でしかないことも、分かっている。
嫌な感じに心臓が鳴るのを感じながら、俺は助手席に座る黒峰さんの方に身体を向けた。
「どうしたの」
「んー。母親からエマージェンシー」
「なんですかそれ」
意味不明で問い返したけど、横目で俺を見た黒峰さんはただ軽く笑って答えなかった。
……マザコンだとは聞いてない。
というか、どういう母親なのかも知らないし、どういう母子の関係をマザコンというのか自分でもよく分からないけど。
とりあえず今日はご飯やお茶にすら行けないということは、このままここでまたお別れということで、結局もう一カ月近くデートらしきデートをしていないことになる。俺は僅かな望みに取りすがっていた。
「週末とか……は、やっぱり無理っスよね」
「……ごめんなあ、いつも」
理由も言わずに謝られても困る。そうやって困ったような、悲しいような、切ないような顔をされても困る。
むっと俺は拗ねて唇を突き出してみたが、そんなもの長くは持たなかった。だって俺はこの人が好きで、疲れている顔も困っている顔も笑っている顔も全部好きで、もうしょうがないなあっていう気持ちになってしまうから。
外灯は広い駐車場スぺースの遠いところにあって、室内灯もつけていないし、ライトも消しているから車内は暗く、暗さに慣れた目で薄ぼんやりと恋人の顔が見える。その顔は俺の方を向いて、少しだけ首を傾げるようにして。
惹かれるように俺は手を伸ばしていた。
細い首に触れて、後ろ髪に指を絡ませる。ふっと黒峰さんが笑った。
「……おまえ、好きだよな。俺の髪、触るの」
「髪だけじゃないよ」
言って、自然に近付いていた顔を伏せて、俺は彼の唇にキスを落としていた。
触れただけですぐに離すと、黒峰さんの両手がそれを咎めるように俺の首に回された。そのまま引き寄せられて、もう一度唇を重ねる。今度は唇を啄ばむようにして、何度も何度も短いキスを繰り返して──そうしたら、すぐに我慢ができなくなる。
俺は車のシートと彼の背中の間に腕をもぐり込ませて、ぐっと腰を抱き寄せて、彼の口腔に舌を差し入れていた。
「ふ、……っ」
鼻に抜ける甘い吐息を洩らして、黒峰さんがびくりと身体を震わせる。
可愛いなあもう。
年上の男を捕まえてそういう言い方はないよな、と分かっていてもそう思う。舌をきつく吸い上げたり、奥の方まで射し込んで上顎を舌先で撫でたりすると、俺の腕の中ですぐに反応をするところが、たまらなく可愛い。俺より年長で社交的で女性にもモテて、経験豊富とまでは言わないけど、この年までにそれなりの経験を積んでいるだろうに、どこかいとけない反応を返すところが、たまらなく可愛い。
俺は彼の背中に回した手を動かして、スラックスにしまわれたシャツの裾をこっそりかきあげる。
と、途端に黒峰さんが顎を仰のけて、キスから逃れた。そして間近で睨みつけてくる。
「こらこら、なにする気だ」
「いや、少しだけ」
「少しだけで終わらないだろ、いつも」
苦笑交じりの黒峰さんの指摘はもっともすぎて、俺は返す言葉もなく、がっくりと彼の肩に重い頭をのせた。だってこうして彼の身体を抱きしめていると、彼の匂いがするし、鼓動が聞こえるし、熱を感じるし、そうしたらもっと欲しくなるのは当たり前で。
そんな俺の背中を黒峰さんが、宥めるように手のひらでぽんぽんと軽く叩いた。
「本当にごめんな、次はきちんと時間取るからさ」
「……来週とか」
「そうだなあ。月曜なら多分、仕事早く終われば」
月曜日!? 頭の中で週明けの予定をぐるぐると思い巡らせて、それから俺はがばりと身体を起こした。
「頑張ります!」
俺の意気込みを聞いた黒峰さんが、くはは、と笑う。
「俺、おまえのそういう計画性もなく無闇にがっつくところ好き」
「……褒められてる気がしません」
「好きだっつってんのに」
笑いながら黒峰さんが身体を起こしていた。
ああ終わりだ、と思う。あっという間の短すぎる逢瀬。ぎゅっと胃の奥が痺れるように熱くなって、もっと欲しいと訴えたけど、俺はなんとか黒峰さんから手を離した。
「悪いな、今日も付き合えなくて」
「いや。代わりに来週思いきり」
「思いきりなにする気だよ」
怖ぇなあ、とか笑って言いながら黒峰さんがドアのノブに手をかけた。ドアの方を向いた彼の後ろ髪に指を伸ばしたかったけれど、もちろんそんなことできなかった。
車外に出て、開けたドアから黒峰さんは顔を覗かせた。
「じゃあな、おつかれ」
「……はい。おつかれさまです」
そう言ってしまえば、黒峰さんはあっさりとドアを閉めて、すぐ隣に駐車された自分の車に乗り込んでいた。
帰る方向はまったく別だし、彼が先に駐車場を出るのを確かめてから、俺が車を動かすのがいつもの習いで、暗い駐車場の締め切った暗い車内では計器の明かりだけが頼りで、ほとんど細かい表情は見えないまま、黒峰さんが軽く手を上げてから車を発進させていた。
そうしてテールランプが広い駐車場の出口を左折して出ていく姿を見送って。
……エンジンがぶるぶると微細な振動を伝えてくる。
車の中に取り残されて、俺は熱くなった身体を持て余した。見つめられてキスを促されて、誤魔化されたなと思ったけど、それ以上はなにも聞けなかった。
あの人の横顔が好きで、疲れている顔も好きで、なんで土日に会えないのかなんて聞けない。俺はあなたのなになんですか、なんて聞けない。俺を一番にしてくれる日は来るんですか、かなんてもちろん。……ああ、なんかこんな思考まるで不倫女みたいだ。
ふっと変な妄想が脳裏をよぎって、俺はぎくりとしていた。
──まさか、浮気ってことはないよね?
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