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「コーヒー好きなのか?」
「ああ、好きだな。この近くに馴染みの珈琲店があってそこによく珈琲豆買いに行ってるんだよ。」
「へぇ…馴染みのコーヒー店か…」
「啓太は珈琲好きか?」
「あー…まあ好きかな。」
敏郎の言葉に若干言葉を濁しながらも答える。コーヒーを好んで飲んでいるというわけではない。受験勉強で夜遅くまでかかる時に眠気覚ましとして時折飲んでいる。齢18で恥ずかしながらコーヒーの味にまだ慣れていないのだ。
「俺が珈琲好きなのは親父の影響なんだよ。馴染みの珈琲店の店主も親父の昔からの顔見知りでな。」
親父、という言葉を聞いて咄嗟にあの顔が浮かんだ。敏郎の父は逓信局に勤めていて毎日朝早くから車で出かけていくのをよく目にしている。顔立ちは敏郎とよく似ている。敏郎もあれくらいの歳になればああいう見た目になるんだろうというのが容易に想像できる。
長身で体格が良く、どことなく威圧感のある外見だ。しかし性格は厳つい外見とは反して寡黙だが、穏やかだ。赤の他人である自分に対しても至って普通に接してくれた。未だに若干恐れ多さはあるものの敏郎の父を含め志木家の人々は良い人ばかりだと思う。
嬉しそうに話している姿を見て、きっと敏郎も父親のことが好きなんだろうと感じる。
「啓太も今度連れて行ってやるよ。」
敏郎はにかっと笑って言う。余り好きではないのに少し申し訳なさを感じながら、こちらも何だか嬉しくなってしまう。どこかに一緒に行くという約束からこれからもあの家に居ていいのかという問いかけと友人だと認められているという満足感が混ざって何ともむず痒い感覚だ。
その後、注文したものが来るまで敏郎の趣味のことや学校での話、子供の頃の思い出話など沢山の雑談に花を咲かせた。
百貨店を出て、帰路につく頃にはすでに夕日が見えていた。行きと同じく電車とバスを乗り継いで帰る。バス停に着く頃には若干暗くなっていて空の向こうは未だ赤く、反対の方向の空にはうっすらと月が見えていた。
「すっかり暗くなったな。」
肩を並べて歩いていると敏郎は独り言のようにつぶやいた。志木家に向かって歩いていると次第にいつもの田園が見えてくる。
このあたり景色も数十年後にはどんな風になっているんだろうと考える。あと2年ほどで太平洋戦争が開戦して米軍が本土爆撃に来れば恐らくこの地域も被害に遭うだろう。そうしたらこの景色も変わり果ててしまうだろうしここに住んでいる人々の命の危機に晒されるだろう。
もちろんその中には志木家の人々も含まれている。敏郎の両親や家政婦の喜代に妹の法恵たちは辺地に疎開することとなるだろう。しかし、敏郎は?敏郎はいずれ召集される。あの若き日の祖父と共に写っていた写真が敏郎が海軍に入隊したことを示している。敏郎はどうなるのだろうか。祖父は敏郎の生死について知らないようだった。終戦までに生きているのか、死んでいるのか。それが分からないだけで言いようのない不安が押し寄せる。
「…あのさ。」
「何だよ?」
堪らなくなってついに敏郎に問いかける。
「敏郎は、もし自分が戦争に行かないといけなくなったらどうする?」
その言葉は今口に出すのは余りにも重すぎて言い終わった直ぐ後からかき消してしまいたくなった。
「何だよいきなり…」
「気になったんだ。今でも軍は他の国と戦争をしているけど、これからますます激化したり長期化したら召集されることになるかもしれない。そうなったらどうするんだよ。」
最初は笑っていた敏郎も言葉を続けるうちにどんどん笑顔が消えていった。さっきまでの和やかな空気も消え重苦しい空気だ。しかしその空気とは違って敏郎の返事は完結だった。
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