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 どうやって書いていたか忘れた。  寝食を忘れ、友人と疎遠になり、ありとあらゆる娯楽を捨てて、極限までひねり出した時間を全て執筆にあてていたのに。 「電話なってる」 「うん、どうでもいい電話」  慌てて服を着替えている彼女は最近よく会う友人のうちのひとりだ。人妻で、子どもがふたりいるらしい。らしい、というのは彼女の口から聞いただけで裏を取っていないから。もちろん裏をとることなど永遠にないのだけれど。 「お迎えにいかなきゃ。じゃあまたね」  慌ただしく俺の頬にキスをして、走って出て行く。おれはベッドに横になり、天井のシミを眺め、さっきまで彼女とたのしんでいたプレイの数々を遠いことのように思い出した。そして久世(くせ)に会える日を頭の中で指折り数えた。久世はいま、陸上の大会とやらでヨーロッパにいた。チェコなら良かったのに、とおれは思う。作家だった頃――と言ってもまだあれから二年しか経っていないが――新刊を上梓するまでチェコに住んでいたことがあるのだ。  おれの生は久世に会う日を柱に成り立っており、久世が死んだり居なくなったり、誰かのものになった時は死ぬと決めていた。死に方も決めてある。なるべく他人に迷惑をかけないやり方を選ぶつもりだ。  ため息をつきながら携帯端末を手に取る。久世からの電話ではないことだけは確かだった。久世は電話が嫌いだ。メッセージも滅多に送ってこないし、送ってくる時は用件のみ、単語のみである。「帰国した」「飲みに行くか」「勝てたぞ」などである。それもおれがしつこく問いかけたりメッセージを送りつけた時だけだ。  電話は懐かしい番号で息が止まりそうになった。電源を切り、枕の下に端末を押し込んで、のろのろと寝室から浴室へ移動した。  シャワーを浴び、服を着替えてからシーツを洗濯機に放り込む。歯を磨いてからダイニングテーブルで目玉焼きと白米、昨日の残り物(筑前煮)をおかずにして朝食を済ませた。料理は比較的好きだ。もともと手先が器用なのだと思う。  リビングに置いてある小さなテーブルには、ほこりをかぶったリンゴマークのPCが置きっぱなしになっている。視界に入るだけで心臓の鼓動が乱れる気がして、食事の途中で納戸の中に放り込んだ。これでよし。  すべての執筆活動につながるものを生活から、そして視界から消す。それだけでこんなに気持ちが楽になるとは思わなかった。書くことにあてていた時間を、映画や、観劇や、読書や、セフレとのセックスに費やす。焦燥も絶望もない穏やかな時間が過ぎていく。  食事を終えて歯をみがく。考え事をしながらうがいをしていたら、歯ブラシが洗面所と壁の隙間に落ちてしまった。 「ああ、クソ」  しゃがみこんで落とした歯ブラシを取ろうとしたとき、指先に何かが触れた。紙のてざわり。嫌な予感がしたけれど、気になったので引っ張り出してみて後悔した。  それはボロボロになった詩集だった。『言葉のない世界』という、おれがこの世で最も好きな詩である『帰途』が収録されている詩集だ。  涙と、汗と、なにかよくわからないものでふやけた詩集は、あの日力任せに壁に叩きつけられたせいで、いまにも崩れ落ちそうな、砂漠で酷使され続けた老いたロバのような有様になっていた。それを手に取り、しゃがんだまましばらく眺めた。 「ごめんな。好きすぎてもう辛くなってたんだ」  この本は何も悪くない。悪いのは才能もないのにしがみつこうとし、あげく辛くなって逃げだした自分だ。
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