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久世が大きく息を吸い、ゆっくり吐く。
トラックに手をついている背中の筋肉が、呼吸に合わせて隆起する。いつみても惚れ惚れする、極限まで鍛え抜かれた肉体が、今戦いに向けて研ぎ澄まされ、その時を待っている。
LAAFクラス一公認、日本でも有数の陸上競技場は、ファンで埋め尽くされている。彼らの第一の目的は久世ではなく、海外から来ている一○○m走の英雄だけれど、おれはそれを心からもったいなく思うし、今から思い知るだろうという期待で胸が膨らんでしまう。
久世のことを誰にも知られたくない。けれど同時に、世界中の人に知ってほしい。
久(く)世(せ)学(まな)人(と)が走る姿の美しさと、圧倒的な強さを。走る目的の一切を他者に依存させない、自分のためだけに走る純粋な陸上選手の在りようを、目に焼き付けて帰ってくれ。
湿ってはいるが不快ではない風が、トラックを撫でてからスタンドを吹き抜けていく。
視聴率を稼ぐため、という俗っぽい理由で夜行われることについて、久世はいつでも「涼しいからいい」と言って喜んでいた。
「On your marks(位置について)」
トラックの中の緊張が、糸のようによりあつまって突き刺さってくるような感じがする。いつの間にか息を止めて、肩をいからせて見つめていた。走るのはおれじゃない。でもおれが走るよりもずっとずっと一大事なのだ。
心の奥底から祈りが吹き上がってくる。久世が実力をすべて出し切れますように。気持ち良く走って、勝ちますように。当の本人はこういった他人からの期待を最も嫌っているというのに、おれはどうしてもそう願ってしまうことが止められない。
「Set(用意)」
ぐっと腹に力を入れる。スタンドが静かになり、すべての視線がトラックに向けられる。
おれは、試合前に久世が射るように言った言葉を思いだしていた。久世はこういった。『もし、今日の四○○か八○○でおれが優勝したら、』
優勝したら。
『もう一度書け。誰に何を言われても、お前は小説を書け。自分が心から書きたいと思うものを、他人の評価なんか一切気にせずに書け』
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