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 はじめのうちは順調だった。なにしろ現役男子高校生が新人の登竜門とされる賞を受賞したのだ。鮮烈デビューだのなんだの言われて、驚くほどちやほやされた。  おれにはAという担当編集者がつくことになった。彼はその出版社で、『絶対に売りたい新人につける』、『敏腕編集者』だと聞いていた。(あとになって、そうでないことに気づくのだが)  デビュー作だったのに、純文学の分野では最も権威があるとされる賞にノミネートされた。担当Aは言った。関東に出てくることはとてもいい、都会の刺激を受けて書くのがあなたのような作家には合っている、と。一体おれの何をしっているのだ、と内心ムッとしたのだが、デビューしたばかりで右も左も分からない田舎出身の小説家の卵に発言権なんてなかった。おれは彼に言われるままに、2作目のプロットを書き、打ち合わせを繰り返した。彼は褒めているのかけなしているのか、よくわからない言葉で意見した。大体けなしていたと思う。高圧的な、支配的な側面がのぞき見えるたびに、そして反論するのが面倒で適当な相槌をうつたびに、おれは本当に小説家になりたかったのか?と自問した。  それでもまだ、本が売れているうちは良かった。一冊目は話題性もあって飛ぶように売れた。さすがにノミネートされた別の賞には選ばれなかったが、当時のおれは大学生活を楽しんでいたので、どちらでもよかった。生活をするにはあまりあるほどの金が転がり込んできたのだ。金遣いが荒いタイプではなかったが、好きなことでお金がもらえるなら、合わない人間のひとりやふたりは我慢しよう、と考えていた。  二冊目も、一冊目ほどではなかったが売れた方だと思う。テーマを全く変えて、人を愛せないサイコパスを主人公にした物語を書いたのだが、自伝的要素を含む一冊目とは違う層のファンがついたらしい。  書店でのサイン本手渡し握手会や、雑誌への露出は本来なるべく引き受けたくなかったのだけれど、久世が「すげえじゃん」といっておれを有頂天にさせてくれるので、つい受けてしまっていた。 「お前の写真、雑誌に載ってたから買ったぞ」とか。本は読まないくせに、他の露出はチェックしてくれる意地悪な久世。転戦の合間に気まぐれにおれの家にきては、〆切が迫って修羅場っているおれの隣で、腹を見せて眠る無神経な久世。寝てる間に犯すぞ。おれはお前の面影欲しさに、姉とも母とも寝た男だぞ。 「成松の本、書店で平積みされてた。お前はやっぱりすごいな。おれも頑張ろう」  メッセージなんて、おれが3通送ってようやく1通返すくせに。こういう内容は突然気まぐれに送ってくる。  おれは久世に執着していた。執着なんて言葉で片付けてはいけないレベルだった。陸上選手である彼のおっかけをするために海外のあちこちに家を借りたり、買ったりしていた。久世は知らないはずだ。単に飛行機でやってきて、試合を見て日本に帰っていると思っている。そんなわけないだろ。お前が海外で変な虫がつかないか、常に監視しているんだよ。余計な金を払って人を雇うことさえ厭わずに。幸い印税収入は何もしなくても振り込まれてきたし、他に使い道もなかったので、大学を卒業して数年間はそういう生活をしていた。海外でも原稿が「じゃあしばらくいいよ」と言ってくれるわけではないので、ラップトップを持ち歩いて暇をみては書いていた。担当とは、スカイプやメールでやり取りをした。  確かあれは3作目だったと思う。3回目の修正を終えたプロットを担当に送ると、『日本で一度会ってゆっくり話がしたい』と言われた。彼はもうひとり、大物の作家につきはじめていたので、偶然売れた若造のおれとは距離が離れつつあった。おれはそれを喜ばしく思っていた。彼とは気が合わない、そう思い続けながら仕事をするのは(そしてそんな人間から納得がいかない指摘を受けるのは)大変なストレスだった。 『わかりました。お会いするのは久しぶりですね。日本には、2日後帰国します』  担当Aや世間には、おれが熱狂的な陸上ファンだと思われているようだった。だからこそ久世との関係について言及はしなかった。幼馴染が陸上選手で、なんて言ったら最後、久世まで追いかけまわされたりすることになる。それだけは絶対に避けたいことだった。久世には、ただ自分のためだけに走っていてほしい。走ることに余計なものを何もつけてほしくない。あいつは純粋に走ることが好きなのだ。期待もプレッシャーも世間からの目も、すべて邪魔であり足かせになる。気持ちよく走れなくなるようなことの一切を近づけないでほしかった。  二十代前半…つまり、今から数年前までは、おおっぴらに女遊びをしなくなっていた。長い間付き合いがあった仁美さん(久世の母親だ)と寝なくなって、おれの欲望はそのはけ口をなくしていた。久世に向かうことがなかったのは、不思議なことに、久世に浮いた噂ひとつなかったことが原因だった。久世に女ができたら。例えば女性アナウンサーだとか、当時所属していた実業団の同僚だとか、ファンの女だとか、そういう連中と浮名の一つでも流していたら、おれは久世を監禁し、思うさま凌辱してから殺して、自分も命を絶ったと思う。けれど、久世には女の影なんて全くなかった。それはもう、学生のころからそうだった。惚れた欲目を差し引いても――久世はとても魅力的な男だと思うのだが――彼の周りには女の匂いというものが皆無だった。もちろん男もだ。その線はとっくに疑っていた。けれど、久世は友人づきあいすら希薄で、陸上以外についての興味関心、人間らしさというものを根こそぎ引っこ抜かれてしまったのか?と思うような有様だった。  そういうわけだったので、当時の性欲は主にプロ女性を相手に消費されていた。それも一流のプロフェッショナルだ。おれは金と引き換えに、久世にやりたいと思っている一切のことを彼女たちに押し付けていた。幸い顔もテクニックも悪くなかったらしく、太客としてとても大事にしてくれた。  帰りの飛行機ではそういったことをつらつらと考えていたと思う。当時持っていた、女性誌のエッセイの内容が一向に決まらなかったので、久世のことを考えて現実逃避していた。久世の、あの鋭くも美しい青い眼や、日焼けしたなめらかな肌や、黒くて艶のある短い髪のことを思いだすと、どれだけ処理をしても兆してくるものがある。このままでは、本当に無理やり久世を犯してしまう日がくるかもしれない。  空港についてすぐ、待ち合わせ場所に指定された都内のホテルへ向かった。このホテルのラウンジが担当Aのお気に入りなのだ。おれはどことなく尻が落ち着かない心地がするし、いつも疲れた様子のAには似合わない場所だなと感じていたが、どうせ出版社の経費で落ちるのだし、おれは公園でも歩道でもホテルでも、どこでもよかった。 「まことに申し上げにくいのですが、こちらの小説を出版することはできなくなりました」    コーヒーを二杯飲んでからようやく、担当Aはそう言った。おれは少し驚いた。ボツはたびたびあったものの、企画自体が通らなくなる、ということは今まで一度も経験がなかったのだ。 「内容に問題があるのでしょうか?それとも企画自体がNGということですか」  うすうすそうなるかもしれない、という予感はあった。けれど担当から何の連絡もないまま半月が過ぎ、メールで督促をしてものらりくらりとかわされ、嫌な予感が次第に濃くなっていたものの、もう六年以上の付き合いだしな、と放置していた。信頼していた、というのはあまりにも無責任な言葉だから使わないけれど。 「テーマが……、タイミングが悪い、という上の判断です」  やはりか。おれは肩を落とした。  そのとき書いていた小説は、貧困をテーマにしたものだった。貧困者が貧困者を食い物にするビジネスで成り上がっていき、最後は貧困よりもひどい転落が待っているという内容の。  ちょうどそのころ、病気で働けなくなった子を年金で養っていた高齢の親が子を殺害し、自宅の庭に埋めるというセンセーショナルな事件が立て続けに起こっていた。都内で二件、郊外で三件と続いていて、社会問題化しつつあった。 「今こそこの話を世に出すべきだと思ったのですが。おれも、かつては貧困の当事者でしたので」  子どもの貧困に、中間所得者の減少。日本はすでに豊かな国ではなくなっている。そういう問題意識を含んだ作品だった。当然、これまでの小説と同様に魂を削って書いたつもりだ。山ほど参考書籍や一次資料にあたり、下調べだけで半年かけた意欲作だった。 「そういう意見もありましたし、私もそう伝えました。けれど意見全体としては差し控えるべきという向きが強かったのです。私の力不足で……、申し訳ありません」  彼が頭を下げたところを見たのは、それがはじめてだった。きわめてプライドが高い男だったので、この男が謝罪するならよっぽどだな、と思ったのだ。 「……、わかりました」  小説もマンガも、作品ができあがるまでは何の金銭も得られない。過去の作品が出版されていれば印税収入はあるが、新しい作品にかけた金、時間、すべて、一円も一秒も返ってこない。  仕方のないことだ。おれの力不足だったのだ。そう思おうとしても、立ち上がる気力がわいてこなかった。それからも彼は何か話していたけれども、おれは上手く聞き取れなかった。  やがて彼が伝票を手に席を立ってからも、おれの尻は椅子に根が生えたみたいに動かないままだった。ほかの出版社にこの作品を持ち込もうか、とも考えたが、タイミングが悪いというならどこに持ち込んでも同じな気がした。それに、デビュー当時から応援し、支えてくれた出版社に対して、申し訳ないという気持ちもあった。専属契約を結んでいるわけではなかったが、義理があり、恩もあった。心情的には結んでいるに等しい状態だった。  それに、おれは圧倒的に世間知らずだった。社会に出てまともに働いたことがないせいで、信頼できる人に任せて、自分では社会的な勉強を怠っていた。例えば契約や、小説家同士の交流や、業界のルール、そういったものに疎いまま、小説だけを書いていた。  そういうことのツケがすべてやってきたんだろう。    そのプロットがボツになってから、未練を断ち切るために、PCに保存していたさまざまなデータをすべて削除した。未練がましく持っているのはやめようと決意したのも、A担当からのアドバイスがあったからだ。『成松さん、次は中高生むけの恋愛小説を書きませんか。わたしは担当から外れることになりますが、彼女もとても優秀な人です。なんでも相談していただけたら』 『以前、ボツになってしまった作品の設定や書きかけのものがあるようでしたら、それらをリセットされるはどうでしょうか。持っているとなかなかあきらめがつかないものです。ほかの作家さんもよくそうおっしゃっています』 『いかがですか。新しいお話の進行は?以前のお話のデータは、まだ持っていらっしゃるんですか』    やけにしつこく確認してくると思った。  おれは鼻から息を出しながら、書店に積まれているその小説を手に取る。中をめくる。目次やタイトルは見る影もない。けれど、分かる。名前を変えようが設定を少し変えようが、これはおれが書いた、そしてボツにされた、あの話そのものだ。  手が震えた。怒りによって。それはAに対してだけではなく、自分にも向けられていた。何も考えず、疑わず、すべてのデータを消してから分かるなんて。おれはどれだけ間抜けなんだ。 「――やってくれたな、クソ野郎」  
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