私の本当の名前は

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私の本当の名前は

俺にはもう時間がない。 残り時間は十分といったところだろうか。 両腕に抱えたもう動かなくなった女を見る。 そうか、もうこれが最後なんだ。 女と俺が出逢ったのはちょうど一年前だ。 組織で唯一俺が会える男、通称オッサンが連れて来た。 若い男の一人暮らしはターゲットに怪しまれる。 新婚夫婦なら警戒されないだろうと。 組織の言うことは絶対だ。 幼い頃からそう教えられてきたし、事実そうだった。 そうだ、今日会社から帰宅し、台所で血塗れの女の死体を見るまでは。 女はボストンバック一つで俺の後を無言で付いて来た。 俺の家に向かう途中土手の桜が満開だった。 女が立ち止まったのが気配でわかったので俺は振り返った。 すると女は突然言った。 私の本当の名前は桜っていうんです、と。 オッサンは女の名前は美代だと言った。 俺は別に女の本名などどうでも良かったのでそうかとだけ言った。 俺達は会社員の夫とその妻として静かに暮らし始めた。 女は毎日俺が会社から帰ると二人分の夕食を用意して待っていて、今日駅前のスーパーにいってみたら鶏もも肉が安かったのでチキン南蛮にしてみただの、背の青いお魚を食べた方がいいらしいので鰯を梅干しと煮てみただの、お昼に一人で食べた近所のベーカリーのコロッケパンが美味しかっただの、お昼のワイドショーでお笑い芸人と美人女優の不倫ネタを一時間もやっていただの、思い出せる限りの身の回りで起こったことを俺に話した。 最初俺は俺達の仕事がらパートナーである俺に女が報告の義務があると思ってやっているのだろうと思っていたが、女の話すことは俺達が組織から与えられた任務に何の関係もなさそうだった。 そのことに気づくのに一週間かかった。 女との暮らしが始まり数日後、女が家の近所にポツンと植えられた桜の木が一本あって誰もいないので見に行きませんかと言った。 会社は休みだし、組織から動くのは秋以降にしろと言われていたので俺は特にすることもなく暇だったので、女の言う通りにしてみた。 成程見事な桜が世界から切り離された様にポツンと立っていた。 女はまた来年も見に来れるといいですねと言った。 俺は特に見たいとも思わなかったが、ああとだけ言って、女が美味しいと言う近所のパン屋に二人で寄り女の進めるコロッケパンとフィッシュサンドを買った。 女は美味しいと絶賛したくせにコロッケパンは買わず、カツサンドとあんドーナツを買い、家に帰り二人でもそもそと食べた。 コロッケパンは美味かったが、前日に女が作ってくれたコロッケの方がはるかに美味かった気がしたので、明日はコロッケが食いたいと言うと女は少し驚いた顔をして笑いながら、コーヒー淹れますねと言って席を立った。 夏になり花火大会があるというので二人で連れ立って出かけた。 女は浴衣を着て、髪も器用に自分で結った。 子供の俺が見たらさぞや感動していたであろう、夜の夢のような美しさがあった。 俺は花火に興味がなかったので、花火を見上げる自分より遥かに小さな女を見ていた。 女は帰り道で俺に言った。 私、本当の名前は蛍って言うんですと。 俺はそうかと言った。 桜じゃなかったのかとは言わなかった。 女は私、花火大会に行ったのは初めてですと言った。 俺も初めてだったが言わなかった。 女は俺の手を取った。 暑いと思ったが振りほどく気にはなれず、家までそのまま帰った。 秋になってもオッサンからの連絡はなかった。 その頃になると隣に眠る女はうつらうつらしながら俺に言った。 私の本当の名前は紅葉って言うんですだの、茜っていうんだの、いつも違う名前を言い、言い終わると満足するのか、俺の利き腕を枕にしてすよすよと眠った。 そうなってくると俺も女の名前に多少の興味が湧いて来たので、女に言った。 この仕事が終わったらあんたの本当の名前を最後に教えてくれと。 女が瞳を開けたのが暗闇の中でもわかった。 女ははいと言い、暖を取るかのように俺に身体を摺り寄せた。 生まれて初めて何とも言えない寒さを感じ、俺は気づけば女の細い身体を力いっぱい抱きしめていた。 冬になると二人で鍋ばかり食べた。 〆はうどんか雑炊だったが、ある日スパゲティを入れてみたらこれが見事にハマリ、次の日もその次の日も〆はスパゲティにしていたら、女はとうとう飽きたのか五日目の朝今日も鍋にしてくれと俺が言う前に今日の夜はカレーにしましょうねと言った。 俺は頷き楽しみにしてると言って家を出た。 クリスマスは女の作ったケーキを食べ、正月は女の作ったお節と雑煮をたらふく食い、テレビを見て二人でだらだらと過ごした。 年が明けてもオッサンからの連絡はなかった。 鏡開きのぜんざいを食べながら女は思い出したように言った。 私本当の名前はあずさって言うんですと。 俺はそうかと言って、ぜんざいのお椀を片手に言った。 おかわりと。 先週の日曜、女が朝から大きなガラスのサラダボウルを割ってしまったので二人で買いに行った。 夏になったらこれでお素麺いっぱい食べましょうねと女が言った。 土手の桜はまだ満開と言うには寂しく、女は来週にはきっとあの一人ぼっちの桜も満開ですねと言い、今年はお弁当持ってあそこでお花見しましょうと言った。 俺がああ、と言うと、楽しみですねと言い、嬉しそうに笑った。 女は台所に倒れていて、台所のテーブルには花柄のエコバックが乗っていた。 食材を冷蔵庫に入れる間もなく殺されたのだろう。 まあもう食う人間は誰もいないから問題ない。 エコバックからはごぼうがはみ出ている。 きんぴらごぼうをするつもりだったのだろうか。 確か女は今日は酢豚にしますねと言っていた。 俺はああ、とだけ言い、女は行ってらっしゃいと言った。 それが女との最後の会話だった。 思い出せたのはここまでだ。 気が付けばここに来ていた。 最後の場所に相応しいのかそうでないのか、あの妻が一人ぼっちの桜と言った世界の果ての桜の木の下に。 もう後五分といったところだろう。 もう追手はそこまで来ている。 女を思い出せるのも、あと五分。 一年が経ったんだな。 あの日二人で世界から忘れ去られた桜を見てから一年が経った。 来年一人ではもう見る気はしないから。 組織は俺達の死体をどうするだろう。 若い夫婦の心中死体にでもするだろうか。 最初からそれが目的だったのか。 まあ、今となってはどうでもいい。 何ていう人生だったんだろうと思う。 最後に思い出せることがあるだけマシなんだろうな。 一年前の俺なら何も思い出さなかった。 思い出せるものがなかった。 女と出逢って女と生きていた時間だけは俺は誰も殺さなかった。 毎朝あんたの作る飯を食い、昼は会社であんたのつくる弁当を食べ、夜はあんたの作った飯を食い、風呂に入り並んで眠った。 人間みたいに暮らしてた。 偽りだらけだったけど、死が二人を分かつまで共に生きられたんだな。 俺はあんたが好きな花すら知らないけれど。 手向ける必要もないから、まあいいか。 あんたの言った通り桜はもう、満開だ。
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