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「柴田さん、柴田さん」
肩を揺さぶられて、私は自分が寝ていた事に気づいた。
「大丈夫? 少し横になってきたら?」
「だ、大丈夫。ごめんなさい」
気が付けば全員の視線が私に集まっていた。
「ちょっとトイレに」
断りを入れ、席を立つ。会社で居眠りしたのなんて初めてだ。
おぼつかない足取りで壁伝いに歩くと、不意に吐き気がこみ上げてきた。トイレに駆け込み、便座を抱えるようにして嘔吐する。出てくるのは胃液ばかりで、胸のむかつきは治まろうとしなかった。最近では朝食を食べる余裕もない。夕飯ですら、交代でカップ麺をすするような有様だ。胃がおかしくなっているのかもしれない。
なんとか呼吸を落ち付かせた後で、便座に腰を落とす。途端、ドロリとしたタールのような睡魔に襲われる。駄目だ。絶対的に睡眠時間が足りていない。
体を斜めに傾け、壁に預ける。顔にくっついたタイルの壁が冷たくて気持ちいい。大丈夫? ここはトイレの壁だけど。そんな細かい事すら気にならなくなる。
一体どうしてこんな事になってしまったのだろう。そんな思いばかりが浮かんでは消えていく。
ほんの少し前までは、何もかも上手く行っていたはずなのに。社長賞までもらえるほど、仕事も順調だったのに。
考えるまでもなく、原因はわかっている。明司が来たからだ。明司が納児されてから、私達の生活は変わってしまった。
ある程度は覚悟していた。きっとこれまで通りになんて行かないだろう。想像以上の無理や苦労をしなければならないだろう。だけどここまでひどいと誰が予想できただろうか。
どんなに献身的にお世話したとしても、一切言う事を聞いてくれない赤ん坊。それが一月以上も続くなんて、どんな育児雑誌にも書いていなかった。赤ちゃんがぐずる時、泣いている時、書いてあった全ての対処法はどれも数えきれないほど試したはずだった。それでもどうにもならない場合、私達は一体どうすればよいのだろう。
頭の熱が奪われるに連れて、少しずつ身体が落ち着きを取り戻していく。あまり長く離席しているわけにはいかない。そろそろ戻らないと。
嘔吐したせいで汚れたブラウスを着替えるため、私はロッカー室に寄った。ロッカーにはいつでも着替えられるよう、予備のブラウスを用意してある。でもやっぱり立って歩くと、視界がふらふらするような気がした。
その時だ。
「……柴田さん、大変そうですね」
頭上から、声が漏れ聞こえてきた。隣の給湯室に誰かいるらしい。
「子どもを作るなんて、大変だもの。自分達で覚悟してやったんだから、仕方ないんじゃない」
「やっぱりリスキーですよね、子育てって」
「当然。だからこそ誰も子どもなんて作らないんでしょ。作ろうと思ったのは素直に尊敬するけど、それでああして体調崩してたんじゃ元も子もないわよね」
同僚の声だ。一言一言がミートナイフみたいなギザギザの刃でもってグサグサと心に突き刺さるけれど、生憎ながら私の胸はすでに傷だらけで何も感じなかった。その言葉は、私自身が自分に何度も投げつけていたものと同じだったから。
誰よりも私がそう思ってる。そう言ってやりたかった。
「畑野修も大変そうですもんね」
「ねぇ。あれ、どうなるのかしら? 気の毒よね。あんな事があったらと思うと怖くて代理出産なんてできないわ。子ども作る人いなくなっちゃうんじゃないかしら」
「ショックですよねぇ、自分の子どもが偽物だったりしたら」
偽物?
一体何の話をしているのだろう。畑野修。数年前によくドラマに出ていた俳優だ。少子化対策に熱心で、共演した女優と結婚すると同時に代理出産を表明し、芸能活動と子育ての両立を通して子どもたちを育てる事の大切さを訴えるとかなんとか、よくマスコミにも取り上げられていた。最近見ないと思ったらあの人、何かあったのだろうか。
スマートフォンに畑野修と入力。途端に現れる予測変換。代理出産、偽物。
目に飛び込んできたニュースは、麻痺したはずの私の心を鋭角にえぐった
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