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「その話ですか」
聞いた瞬間、楠医師はため息を漏らした。
「あのゴシップ誌の記事ですよね? 実は迷惑してるんですよ。あんな根も葉もない妄想を書かれて。全国の産婦人科が困ってますよ」
想像した中で一番最悪の反応に、私もため息を返したくなる。私達がどうしてやって来たかわかりそうなものなのに、まるで他人事みたいな言い草だ。
「迷惑って……じゃああれは、全部嘘だって言うんですか?」
「説明するまでもないと思いますが。明司君を納児する際には、出生証明書を一緒に渡しましたよね? あれが証拠です。間違いなく明司君は、お二人の子どもですから」
精子と卵子は採取された時点でナンバリングされ、住民基本台帳のようなシステムに登録される。その後どの精子と卵子が受精し、どこの母体に移植されたか、生まれてきた子どもがどうなったかは全てデータとして紐づけられているのだという。生後に行われる各種の遺伝子検査の結果も含めて、全てシステム上で管理されているのだ。
そうである以上、悪意を持って中身を入れ替えるような事はできない。一つをいじれば他のデータにも影響が及び、全体の整合性が取れなくなってしまう。だから出生証明書は正しい、というのが楠医師の説明だった。
そんなものは畑野修の記事を通じて、誰しもが知っている話だ。幾らでも抜け穴があるから、こうして世間を騒がせているのではないか。
「でも、遺伝子検査が間違いである可能性も否定できないじゃないですか。実際に畑野さんはそうだったわけですし」
「私の立場から言えば、出生証明書に記録された遺伝子検査が間違いである可能性を調べるよりも、その芸能人の方が検査機関を名乗るどこかに作らせた遺伝子検査がいい加減なものである事を調べた方が早いと思いますよ」
毅然として言い切る楠医師の態度に、汚い雑巾で撫でられたような嫌な感じがした。頭の中でパチッとスイッチが切り替わる音がする。
「そういう物言いってどうなんでしょうか。畑野さんもきっと、とっても不安だったと思うんです。だっておかしくないですか? 両親の言う事だけ聞いてくれないんですよ? うちの明司だって、保育所ではとってもいい子なんです。それなのに、私達の言う事は全然聞いてくれなくって。こんなの絶対おかしいですよ。それについてはどう説明してくれるんですか?」
「時間の問題です。実際、そういった事例は代理出産の場合には少なくないんですよ。代理母の胎内で長い間過ごしてきた赤ちゃんは、生まれてから急に別の環境に移されて、慣れるのに時間が掛かるんです。大概は一週間から二週間程度で慣れるはずですが、個体によっては明司君のように長い時間が掛かる場合もあります。おかしいのではなくて、赤ちゃんも環境に慣れずに不安なだけです。もう少し明司君にも時間をあげて、待ってあげて下さい」
「それには一体どれだけ時間を掛ければいいんですか? 私達、もう限界なんです。これ以上続くようなら、仕事も辞めなくちゃならないかもしれません。明司が他人だとしたら、それについてはどう責任を取ってくれるんですか?」
もう少し、あと少しなんて言葉は聞き飽きた。わざわざ医者から言われずとも、私達自身がどれだけ同じ言葉を繰り返してきた事か。この医者は、やっぱり私達の苦労をわかっていない。他人事だと思っているんだ。
「あの、せめて、もう一度遺伝子検査をしてもらう事はできませんか」
それまで黙っていた一樹が口を開いた事に、楠医師は少しひるんだ様子を見せた。
「それは……できない事はありませんが。やるとすれば、実費で負担していただく事になりますよ」
「私達に払えって言うんですか?」
食って掛かろうとする私を、一樹が押し留める。
「一度やってもらってもいいですか。不安を抱えたままっていうのも良くないと思うんで、そうじゃないならそうじゃないという確証が欲しいんです。もう一度明司の遺伝子検査をしてください」
「……わかりました」
楠医師は、誤って渋柿を齧ったような顔で頷いた。
後日、結果が届いた。明司は間違いなく私達の子どもだというものだった。
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