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弁当屋の彼
「イチスケさんお帰りなさい! 今日はハンバーグ弁当残ってるよ」
「……」
いつも、聞こえない振りをしてそのままマンションに駆けこめばいいと思う。
でもできない。こんなに純粋な好意を向けられて、無視することなんてできない。
家に向かいかけたつま先を名残惜しく眺めてから、俺はえいやっと方向転換した。
「やあ、凛久くん! 今日はハンバーグ弁当なんだ。どうしよっかな」
にこやかに向かいの店のショーケースを物色する振りをするが、さっきまで会社の同僚と軽く飲んでいたので、腹は全然減っていない。
「……イチスケさん嘘つき、お酒の匂いがするよ。今日は遅かったから何か食べてきたんだね。いいよいいよ、無理しなくても」
「へへ、ごめんね」
胸まであるショーケースから、腕と顔だけ覗かせてもたれかかっている彼は、この弁当屋の看板息子だった。
うちの実家のマンションの前にある庶民的なこの店は、昔からこの場所で手作りの弁当を売り続けている。学生のころから親しんでいた俺は、両親が田舎に隠居した今でもここに住んでいて、夕飯を買うことを日課にしていた。
「最近、仕事遅いね、大丈夫? しっかり食べなきゃ体壊すよ。雄太も心配するよ」
「雄太が心配? ないない。あいつ最近うちにも帰って来ないもん、こっちが心配してるよ。どうせ美紀ちゃんちにしけこんでるんだろうけどね」
あはは、と大げさに笑って切りあげるタイミングをはかっていたら、はい、と小さなビニール袋を差し出された。
「なに?」と聞いても凛久はにこにこ笑うばかりだ。
受け取って中をのぞくと、小さなパックの筑前煮が入っていた。
「あげるよ。今日少し余ったぶんだから、冷蔵庫に入れておいて明日の朝にでも食べて」
「いいの?」
恐縮して聞くが、彼はぺこりとうなずいて顔をあげなかった。下を向いたままぼそりと言う。
「いいんだ。ホントにイチスケさんが心配だから。体、大事にしてほしいから」
「…………」
耳を赤くしてそんなことを言われると、俺は何も言えなくなる。
心配されるのはうれしい。だけど、俺たちの間には昔、”ちょっとしたこと”があって、素直にその好意を受け取るのはためらわれるのだ。
とはいえこうしてサービスしてくれるのは彼の母親が店番の時も同じなので、拒否する理由もない。
「ありがとう。俺料理できないから、ホント助かります」
拝むようにビニール袋を持ち上げて、じゃあ、と店をあとにした。
ほんの数歩あるきマンションの入口で振り返ると、ずっとこちらを見ていた凛久が小さく手を振ってくれる。俺は手を振りかえしてエレベーターに乗りこみ、ほっと息をついた。
「はぁ……」
――なんというか、疲れるな。
彼が悪いんじゃない。きっといまだに引きずっている俺の罪悪感が問題なのだ。
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