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その後一週間ほど、残業で弁当屋の閉店に間に合わない日が続いた。シャッターの閉まった店を眺めてみたところで彼に会えるはずもない。
久しぶりに早く終わった今日、俺は店の数メートル前から緊張していた。
浅くなる呼吸を意識して深く吸いこみ、ひるみそうになる足を気合いで大股に動かして、店の前に立つ。
客が二人覗きこんでいるショーケースの向こう、そこには今日も凛久が立っていた。
少し離れて立つ俺を見つけて、彼の肩が大きく揺れた。しかしすぐに目線をそらす彼にやっぱりかと凹む。
前の客が居なくなって、店先には俺だけになった。奥の厨房にも人影は見えない。俺はぐっと一歩踏み出して、彼の前に立つ。だが、彼は顔を上げようともしなかった。
――やっぱり嫌われているよな、俺。
心が折れそうになるが引き返すわけにはいかない。今しかない。
俺は腹に力を込めると、彼のつむじに向かって呼びかけた。
「凛久くん、俺っ……」
「何でもないからっ!」
俺の言葉は、とがめるような凛久の声にさえぎられた。
ぎくりと体を固まらせた俺を、ゆっくり顔を上げて彼が見る。その表情は意外なことに、さっきの声音が嘘のように優しく笑っていた。
「凛久……くん?」
ついていけなくて怪訝な顔で凛久をうかがう。
「お兄さんお久しぶりです。言いたいことはわかります。でもそんなの”ちょっとした昔のこと”なんだから、もう忘れましょう?」
「え……」
本当に? 本当にそう思っているのか? 彼の言うことがにわかには信じられなかった。
「僕もその方がありがたいです。これからも弁当買って欲しいし、そのたびに気まずくなるの嫌じゃないですか」
「何にします?」と変わらずにこにこと笑っている彼を見たら、何も言えなくなった。
「あの……鮭弁を」
とまどいながら注文をして、後ろを向いてご飯を詰めている彼の背中を見つめる。
ぐっと浮きあがって動く肩甲骨や、ゆるいTシャツから覗く筋張った腕はもうしっかり大人のそれだ。
彼の傷が癒えているのかどうかは、俺にはわからない――ひょっとすると本当に最初から傷ついてなどいなかったのかもしれない。どちらにせよ、『忘れよう』と彼が言うのなら、俺はそうするのが一番良いのだと思った。下手に掘り起こさなくても、時間が解決することもある。
肩の荷が下りた気がして、ほっとした俺は小さく息を吐いた。
「わかった。俺はもう忘れるよ」
にこりと笑い返すと、凛久も弁当の入ったビニールを差し出しながら「また買いに来てね!」と笑った。
一瞬ふせられた目が、ひどく暗い色をしていた気がしたけど、その時は深く考えることはできなかった。
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