その場所は……

1/3
前へ
/16ページ
次へ

その場所は……

 せっかくの土曜日だというのに、リビングでは弟とその彼女の美紀ちゃんが、きゃっきゃうふふと仲良くゲームをしていて休まらない。 「なー。君達せっかくの休みなんだから若者らしく出かけてきたら。もう夕方だよ? 疲れてるからゆっくり映画でも見たいんだけど」 「そっちこそ、俺らの邪魔しないっていう配慮はないのかよ」 「…………」  大人しかった弟がなぜこんなにも生意気に育ったのか、と遠い目をしていたら、どうやら彼らは出かける相談をしたようだ。おじゃましましたー、と玄関から美紀ちゃんの声が聞こえた。バッグを背負った雄太も続くかと思ったら、「あ、そうだ」とひとりで戻ってきた。  ソファの定位置に陣取った俺が見上げると、雄太は難しい顔をして声をひそめる。どうやら美紀ちゃんには聞かれたくない話らしい。 「なぁ……兄ちゃん。大黒町の『シャングリ=ラ』って知ってる?」  弟の口から飛び出した意外な場所の名に、俺は眉をひそめた。 「知ってる……けど、それがどうした?」 「凛久がさ、そこに出入りしてるって、大学で噂になってるらしいんだ」 「まさか! お前らあそこがどんな場所か知らないんだろ?」  しかし、雄太は深刻そうな表情を崩さない。 「……それ本当なのか?」 「俺は知らない。けど見たヤツがいるらしい。適当なこと言うなって釘はさしたけど、心配でさ……」 「…………」  『シャングリ=ラ』。それは裏通りの更に奥にひっそりとある、成人映画専門の映画館だった――表向きは。知っている人間には違う意味を持つ。同じ趣味を持った男たちが集う“発展場”でもあったからだ。館内では暗闇にまぎれて卑猥な行為が行われるのも珍しくない。ルールを知っていて限度を守れるならば、それなりに楽しい刺激的な遊び場だ。  俺も昔遊び歩いていたころに誘われたことがある。正直興味はあったが、遊びよりも真剣な恋愛に憧れていた俺は、けっきょく足を運ぶ機会はなかった。 ――そんな場所に、凛久が……? 「俺からは聞きづらいし、兄ちゃんからそれとなく言ってくんね? もし本当なら見られてるからヤバいって」  玄関から焦れた美紀ちゃんの呼ぶ声が聞こえて、雄太は行ってしまった。  俺は、しばらく動くことができなかった。  『シャングリ=ラ』なんて、世慣れてすれた大人が集まる場所だ。一歩間違えば犯罪にだって巻きこまれる。凛久が行っていい所じゃない。  じりじりと胸が焼かれる思いがする。  ただの噂だ。見間違いかもしれない……でも……。  気だるげにたたずむ凛久の姿が脳裏に浮かぶ。嫌なイメージがオーバーラップする。  俺は居ても立ってもいられずサンダルをつっかけると、弁当屋へと走った。  ダルダルの部屋着を着た俺が髪を振り乱して来たのをみて、弁当屋のおばちゃんは目を丸くしていた。凛久のお母さんだ。 「はぁ、はぁ……おばちゃん……凛久くん、いる?」 「あらま、市祐(いちすけ)君お水でもいる? 凛久はねぇ出かけてるのよ。せっかく来てくれたのにごめんね。お友達の家に泊まるって言ってたから、用事があるなら携帯にでもかけてみて」 「泊り? そういうことよくあるの?」 「まぁ、いい歳だからね。最近は月に何度かは帰ってこないわよ」 「……そう」  悪い予感がする。  今は――弁当屋の時計では午後五時半。あの場所が賑わうのはもっと深い時間だ。  お弁当買ってかないの? と呼び止めるおばちゃんに上の空で返事をして、俺は家に引き返した。  すぐになじみの仲間に連絡して、最近シャングリ=ラに行っていないかと聞いて回る。知らないと言われ軒並み空振りをする中で、話を聞いたという男がいた。なんでも最近やけに盛り上がっているらしいと。何でかと聞くと、若いのに淫乱な男がたまに来るからだと言われた。“姫”とあだ名されているらしい。 「名前は!!」怒鳴るように聞くと、そんなことまで知らないと、迷惑そうに電話を切られた。  まさか……とは思う。  でも嫌な想像が止められなくて、気づけばドッドッと心臓が早鐘をうっていた。 ――間違いであって欲しい。早とちりであって欲しい。  そう願いながら俺は、シャングリ=ラに向かうために着替えはじめていた。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

740人が本棚に入れています
本棚に追加