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その場所は……
せっかくの土曜日だというのに、リビングでは弟とその彼女の美紀ちゃんが、きゃっきゃうふふと仲良くゲームをしていて休まらない。
「なー。君達せっかくの休みなんだから若者らしく出かけてきたら。もう夕方だよ? 疲れてるからゆっくり映画でも見たいんだけど」
「そっちこそ、俺らの邪魔しないっていう配慮はないのかよ」
「…………」
大人しかった弟がなぜこんなにも生意気に育ったのか、と遠い目をしていたら、どうやら彼らは出かける相談をしたようだ。おじゃましましたー、と玄関から美紀ちゃんの声が聞こえた。バッグを背負った雄太も続くかと思ったら、「あ、そうだ」とひとりで戻ってきた。
ソファの定位置に陣取った俺が見上げると、雄太は難しい顔をして声をひそめる。どうやら美紀ちゃんには聞かれたくない話らしい。
「なぁ……兄ちゃん。大黒町の『シャングリ=ラ』って知ってる?」
弟の口から飛び出した意外な場所の名に、俺は眉をひそめた。
「知ってる……けど、それがどうした?」
「凛久がさ、そこに出入りしてるって、大学で噂になってるらしいんだ」
「まさか! お前らあそこがどんな場所か知らないんだろ?」
しかし、雄太は深刻そうな表情を崩さない。
「……それ本当なのか?」
「俺は知らない。けど見たヤツがいるらしい。適当なこと言うなって釘はさしたけど、心配でさ……」
「…………」
『シャングリ=ラ』。それは裏通りの更に奥にひっそりとある、成人映画専門の映画館だった――表向きは。知っている人間には違う意味を持つ。同じ趣味を持った男たちが集う“発展場”でもあったからだ。館内では暗闇にまぎれて卑猥な行為が行われるのも珍しくない。ルールを知っていて限度を守れるならば、それなりに楽しい刺激的な遊び場だ。
俺も昔遊び歩いていたころに誘われたことがある。正直興味はあったが、遊びよりも真剣な恋愛に憧れていた俺は、けっきょく足を運ぶ機会はなかった。
――そんな場所に、凛久が……?
「俺からは聞きづらいし、兄ちゃんからそれとなく言ってくんね? もし本当なら見られてるからヤバいって」
玄関から焦れた美紀ちゃんの呼ぶ声が聞こえて、雄太は行ってしまった。
俺は、しばらく動くことができなかった。
『シャングリ=ラ』なんて、世慣れてすれた大人が集まる場所だ。一歩間違えば犯罪にだって巻きこまれる。凛久が行っていい所じゃない。
じりじりと胸が焼かれる思いがする。
ただの噂だ。見間違いかもしれない……でも……。
気だるげにたたずむ凛久の姿が脳裏に浮かぶ。嫌なイメージがオーバーラップする。
俺は居ても立ってもいられずサンダルをつっかけると、弁当屋へと走った。
ダルダルの部屋着を着た俺が髪を振り乱して来たのをみて、弁当屋のおばちゃんは目を丸くしていた。凛久のお母さんだ。
「はぁ、はぁ……おばちゃん……凛久くん、いる?」
「あらま、市祐君お水でもいる? 凛久はねぇ出かけてるのよ。せっかく来てくれたのにごめんね。お友達の家に泊まるって言ってたから、用事があるなら携帯にでもかけてみて」
「泊り? そういうことよくあるの?」
「まぁ、いい歳だからね。最近は月に何度かは帰ってこないわよ」
「……そう」
悪い予感がする。
今は――弁当屋の時計では午後五時半。あの場所が賑わうのはもっと深い時間だ。
お弁当買ってかないの? と呼び止めるおばちゃんに上の空で返事をして、俺は家に引き返した。
すぐになじみの仲間に連絡して、最近シャングリ=ラに行っていないかと聞いて回る。知らないと言われ軒並み空振りをする中で、話を聞いたという男がいた。なんでも最近やけに盛り上がっているらしいと。何でかと聞くと、若いのに淫乱な男がたまに来るからだと言われた。“姫”とあだ名されているらしい。
「名前は!!」怒鳴るように聞くと、そんなことまで知らないと、迷惑そうに電話を切られた。
まさか……とは思う。
でも嫌な想像が止められなくて、気づけばドッドッと心臓が早鐘をうっていた。
――間違いであって欲しい。早とちりであって欲しい。
そう願いながら俺は、シャングリ=ラに向かうために着替えはじめていた。
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