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「……なんで」
知らずに零れ落ちた俺の言葉に、はっとしたように凛久が動きを止めた。
おそるおそる振り向いた彼は、そこに立っていた俺の姿を見て、ぽかんと呆けた顔をした。
次の瞬間、はじかれたように体を起こし、乗っていた男の上から椅子の下に転げ落ちる。どこかをぶつけた鈍い音がして、俺は凛久に駆け寄った。
「凛久っ!」
通路にうずくまる彼の肩にそっと手を置こうとする。しかし彼は素早く立ち上がると、俺の手を跳ねのけ、脱兎のごとく逃げ出した。
「まてっ!」
邪魔なギャラリーの合間を縫い、椅子の背を踏みつけ飛び越えて、俺は凛久を追った。
重い扉に足止めをされるが跳ねのけ、廊下に出るが凛久はいない。そのまま全力でロビーに走りこむと、入口のガラス扉をくぐり抜ける彼を見つけた。
「凛久、逃げるなっ!」
鋭く叫んで追うが彼は止まらない。
俺もシャングリ=ラを飛び出すと、ギョッとする通行人にかまわず、無我夢中で彼の背中を追いかけた。
奥まって少し開けた場所にあるここから出るには、狭い一本道を通るしかない。
そこを目がけて走る凛久は、はだけたままの恰好を気にして時々速度を落とした。その隙を逃さず一気に距離を詰める。
振り向いた彼が迫る俺に驚き目を見開いた瞬間、俺は殴りかかる勢いで凛久の手首を掴んだ。
凛久は俺をひっかき、叩き、暴れまわって、必死の抵抗でその手を外そうとする。
「……っ、やだっ!」
「凛久っ! まっ、痛っつ!」
俺も絶対に離すわけにはいかない。
何事かとざわめく人波の中、そうしてしばらくもみ合っていたが、力では敵わないと悟ったのか、凛久の手からふっと力が抜けた。
逃げるのはあきらめたかと、俺もやっと脱力し、大きく息を吐いた。
久しぶりに全力で走った。全身が心臓になったみたいに激しい動悸がおさまらない。肺もきりきりと痛くて、吐きそうだ……。
ハァハァとしばらく息を整え、さてどうやって凛久と話そうかと思ってふと見ると、握った凛久の手がぶるぶると震えていた。
「凛久くん?」
うつむいたままの彼の顔を覗きこんだ俺は、驚きで動きを止めた。
凛久はその目元を赤く染め、声もなく泣いていたからだ。
顔中をぐちゃぐちゃに濡らして、ぬぐうこともせず、ただ悲痛な表情で涙を流していた。
「……凛久」
「こん、な……の、やだ……」
「え?」
凛久からこぼれたその小さな声を聞き取ろうと、更に近づこうとしたとき、かくりと凛久の膝が折れた。
俺が掴んだ手を吊られたまま彼は、汚れたアスファルトにへたりこむ。そして、癇癪を起した子供みたいに、手で地面を打ちつけて泣き喚いた。
「やだっ! いやだ、いやだ、いやだっ。どうしてっ……こんなの最悪だ……いやだっ!!」
突然爆発したようなその激しさに、とっさには反応することができなかった。
だが「うっ、うっ……」とうずくまって泣き出した凛久の姿を見て我に返り、慌てて彼を抱き起こす。
酔客たちが遠巻に見ている。これ以上凛久を見世物にしたくない。
俺はすすり泣いている彼を支えると、人気のない路地に移動しようと足を速めた。
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