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ちふゆには、毛がない。
いや、髪の毛はある。ないのはシモや腋下の……いわゆるムダ毛に分類される毛だ。
いい歳をして手足までもツルツルのちふゆが、ひそかにそれを気にしていることを知っていながら、青藍が先日、とんでもない悪戯を仕掛けてきた。
ある朝、ちふゆが目を覚ましたら、なんと、股間に黒い毛が生えていたのだ。
毎日、朝に夕にと家でコソコソと、コツコツと、育毛剤を塗っていた成果が出たのか! とちふゆは一瞬喜んだ……が、おかしい。一晩でこんなに伸びるわけがない。
恐る恐るそこに触れてみると……それは毛の感触ではなかった。
マジックのインキだ。
陰毛かと思われた黒いものの正体は、細いマジックで引かれた、ただの線だったのだ。
ちふゆは激怒した。
まだ寝ている青藍をベッドから蹴り落とし、きょとんとする彼を置いて蜂巣(淫花廓では客と男娼が一晩を過ごす離れをこう呼ぶ)を飛び出し、怒り心頭のまま家に帰った。
青藍からはその後、ちふゆの怒りの理由を問う手紙が数通来たが(淫花廓では非日常を演出するため、通信機器などの使用が認められていない。それは男娼も同様で、外部との連絡手段は手紙に限られていた)、ちふゆはそれをすべて無視して……今日に至るというわけである。
「風呂場でマジック落としてたときのオレの気持ちがわかるかっ?」
握りこぶしを震わせて、靴も脱がないままにちふゆが大きな声で梓に訴えてきた。
彼の熱弁に、梓はう~んと首を傾げる。
玄関で地団駄を踏んでいる音羽ちふゆという人物は、梓よりも年上なのだけれど、ヒヨコのような髪のせいか小柄な体格のせいか、動きが一々可愛いのだった。
それを微笑ましく思いながらも、梓は純粋な疑問を口にする。
「ちふゆくんって、その……毛がないこと、気にしてるんだよね?」
尋ねた瞬間、ちふゆの顔が真っ赤になった。
「わ、悪いかよっ!」
反射のように怒鳴った彼は、ふるふると肩を震わせて……それから困ったような形の眉をぎゅっと寄せて声のトーンを落とした。
「っていうか、おまえ、生えてんの?」
「え?」
「おまえだってツルツルだろ?」
決めつけて、ちふゆが梓のウエストに手を伸ばしてくる。
「ちょ、ちょっと、ちふゆくんっ」
梓はズボンを死守しながら体を捻って彼の手を躱し、どうどうと子どものような男を落ち着かせた。
「ちふゆくん、話がずれてるから」
「梓が先に変なこと言ったんだろ」
「僕が言いたかったのは、ちふゆくんが気にしてることを、青藍さんがそんなふうに揶揄うようなことするかな、って不思議に思ったって話で……」
梓の中の青藍は、人懐っこい犬のように明るく、少し口うるさい一面もあるけれど、他人のことを放っておけない世話焼き体質で。けれど、ひとが気にしているようなことをずけずけと言ったり、ましてやそれを揶揄ったりなどは到底しそうにない印象だった。
それほど青藍のことを知っているわけではないから、たぶん、だけれど。
梓の指摘を受けて、ちふゆが唇をヘの字に曲げた。
腕組をして黙考するように中空を睨んで……それからまた地団駄を踏んだ。
「そ、れ、で、も! あいつがオレのココに落書きしたのは確かなんだよ! だから梓、おまえ、一緒に考えてくれ」
「な、なにを?」
「青藍をぎゃふんと言わせる方法!」
声高に、ちふゆが宣言した。
梓は思わずポカンとしてしまったが、彼の顔は真剣そのものだ。
ぎゃふん、だなんて現実で聞いたのは初めてだな、とどうでもいい感想を抱いた梓だったが、ちふゆと青藍の関係が少し羨ましくも思えた。
梓の恋人は、梓よりもずっと年上で。
彼らのように他愛のない喧嘩を、梓はしたことがなかったから。
漆黒の男らしくシャープな、けれどやさしく甘い顔を思い浮かべて、梓はなんだか胸苦しいような気持になった。
ちふゆの、惚気のような愚痴にあてられたのだろうか?
バリトンのあの声で、梓、と呼ばれたくなって、そんな自分の欲求に梓はひとり恥ずかしさに悶えそうになる。
そんな梓に、ちふゆがスス……と近づいて、
「で?」
と短く問うてきた。
「え?」
「おまえの毛。ほんとに生えてんの?」
ちふゆの目が据わっている。
わきわきと動いた彼の指が、梓のズボンのウエスト部分を掴み、引きずり降ろそうとしてきた。
「わっ、ちょ、ま、待って!」
梓は咄嗟に前のゴムを掴み、抗った。
ズボンを下ろそうとするちふゆと、そうはさせまいとする梓のちからが拮抗する。
「な、なんで僕の毛が関係あるのっ」
「だって年下のおまえがボーボーだったらオレが可哀想だろっ! ちょっと見せろって。確かめるだけだからっ」
「あっ、そんな引っ張ったら、伸びるから、だ、ダメだってば!」
「うるせぇっ、観念しろっ!」
徐々に声が大きくなってゆき、ヒートアップしたちふゆが悪役めいたセリフを吐き出した、そのときだった。
「おやおや、随分と賑やかだね」
甘く艶のある声が、割り込んできて。
二人は揃って玄関のドアへ視線を向けた。
うっすらと開いていたドアの隙間から、白く細い指が見えた、と思ったら。
それがゆっくりと開いて……。
顔を覗かせたのは、恐ろしげな金色の目をした、般若の面であった。
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