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 水面(みなも)から顔を出す鯉のごとく、漆黒の口がパクパクと開閉した。  なにかを言おうとしているが、声が出ていない。  しばらくそうしてから、漆黒は頭痛をこらえる動作でひたいを抑えた。  そして、空いているもう片方のてのひらを梓へと向けて、ようやく絞り出した低い声で、「ちょっと待て」と呟いた。 「ちょっと待て、梓」 「いいんです。漆黒さん、ずっと無理してたんですよね」  すん、と鼻を啜って。  梓は無理やりに口角を上げてみせた。笑顔の失敗作を披露された漆黒が、鼻梁(びりょう)にしわを作って唸った。 「だからちょっと待てって言ってるだろ。梓、おまえさっきからいったいなんの話をしてるんだ」  本気の困惑を滲ませる男に、梓は胸の痛みをこらえながら深呼吸をした。    浮気を指摘することは、恐ろしい。  梓ではダメだったのだと、漆黒から直接告げられるシーンを想像するだけでみっともなく震えそうになる。  けれど、もはや白を切り通せる状況ではなく、梓は恐々と小さな声を発した。 「ぼ、僕、見ました……漆黒さんが、紅鳶さんや青藍さんと、き、キス、してるとこ、見ました……」 「はぁっ? ……あ、ああ、あれか」  一瞬目を剥いた漆黒が、隠す様子もなくあっさりと頷いた。 「なんだおまえ、見てたなら助け舟ぐらい出してくれても良かっただろ」  おまけにそんなことまで言って、男前に整った顔でくしゃりと笑いかけてきたから、梓は思わずカッとなって漆黒の両頬をてのひらで挟んで男を睨みつけた。 「う、浮気ですかっ!」  漆黒の目が丸くなった。  束の間、梓と視線を合わせた彼が、不意に肩を揺すって笑い出す。 「くっ、……は、ははっ。浮気って、勘弁しろよ。あんな可愛げのない奴らと浮気するなんて、金積まれたってごめんだ」 「で、でも、キス……」 「おまえなぁ。見てたなら知ってるだろ。あれは泥酔したバカどもの悪ふざけだ」 「…………泥酔?」 「酔っ払いだ酔っ払い。酒が入ると淫花廓自慢の男娼もIQがゼロになるっていい例だよな。まったく……迷惑な話だぜ」    ふぅ、と嘆息を漏らした男が梓の手の上から己の手を被せてきた。  漆黒の頬を挟んだままのそれを、やわらかく握り込んで。  漆黒が、下瞼を軽く歪めて梓を見上げてくる。 「それで? 梓」 「……えっ?」 「おまえはなんの勘違いをしたって?」  梓は視線を泳がせた。  男から離れようとしたが、両手を包まれているため動くことができない。  てのひらに、漆黒の頬から伝わる体温があった。  親指の付け根の辺りには、チクチクとする髭の感触。 「梓?」  返事を催促されて、梓は情けなく眉尻を下げた。    あのときは目に飛び込んできた絵面がショックすぎて、漆黒が紅鳶や青藍からキスをされていたことしか覚えていない。  彼らが酔っていたなんて、まったく気づかなかったし、思いもしなかった。  でも。  それでも。 「……でも、キスしてました」  泥酔していようがいまいが、キスをしたのは事実だ。 「お客様じゃないひとと、キスしてました」  梓はそんなふうに、男を責めた。  自分が子どもっぽいことを言っているのは自覚していたが、一度唇からこぼれた愚痴は止まらなかった。 「僕じゃないひとと、キスしてました」    漆黒が小さく息を呑んだ。    「あずさ……」 「ぼ、僕……あなたが、紅鳶さんにキスされてるのを見て……」 「梓。悪い。おまえがそんなに気にするとは思ってなかった」 「紅鳶さんや青藍さんに、押し倒されてるあなたを見て、ぼ、僕……漆黒さんが、本当はああいうひとに抱かれたいんじゃないかと思って……」  梓の言葉に、漆黒がぶるりと震えた。浴衣の袖から覗く彼の腕に、鳥肌が広がってゆく。気持ち悪いがゆえの悪寒だったようだ。 「気持ち悪いこと言うなって」  案の定そう口にして、漆黒が苦々しく顔をしかめた。  それにほろりと笑い返し、梓はひたい同士をコツリと合わせた。  間近で視線が交わったが、近すぎて焦点がぼやけている。  梓は喘ぐように胸を上下させて、つっかえながらも言葉を綴った。 「漆黒さんが、そっちがいいなら、僕が、頑張ろうと思って……ぼ、僕、あなたの望むようなひとになれるように、頑張ります。漆黒さんが、逞しいひとが好きなら、頑張って体も鍛えます。だから……」  梓の手の甲から、漆黒の温もりが離れた。  かと思うと、両頬をてのひらで包まれた。  互いの頬を、互いが引き寄せて。  唇よりも先に、鼻の頭がこすれた。   「だから、僕にだけ、してください」    吐息とともに、涙が一粒転がり落ちた。  漆黒の指が、それを拭って。  目尻にやわらかなキスが与えられた。 「仕事以外のキスは……キスも、あなたの愛も、受け取ることができるのは、僕だけだって……僕にだけくれるって……言ってほしいです……」  切れ切れに訴えながら、なんて図々しいことを言っているんだろうと梓は自己嫌悪を覚えた。  誰を愛するのかは漆黒の自由だ。それは強制されるようなものではない。  でも。  梓だけだと、言ってくれたら……。  梓は。  梓は……。 「おまえだけだ、梓」  こころが甘く震えるような声で、漆黒が囁いた。 「淫花廓(ここ)での俺は、男娼だから、体はぜんぶやれないが」  熱い唇が、また目尻に押し当てられて。  頬骨、鼻、と徐々に位置を変えてゆく。  そして、ちゅ、と微かな音とともに梓の唇を(ついば)んだ男が。  梓の好きな笑い顔になって。 「こころはぜんぶ、おまえのものだ。おまえだけのものだよ、梓」  と、言ってくれたから。  梓は漆黒が浮気したかもというショックや、男に組み敷かれている漆黒を目撃したときの衝撃ももはやどうでもよくなってしまい。  衝動のままに漆黒の頭を引き寄せて、深く深く唇を合わせたのだった。       
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