第一歌 いそのかみ

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第一歌 いそのかみ

「どうぞ」 「ありがとうございます」  初めて交わした言葉は、外国語の会話帳に出てくるような単語のやりとりだった。  場所は紀尾井小ホールの客席。春海(はるみ)にとっては付き合い半分、仕事半分の演奏会である。  だが、決してメジャーとはいえない邦楽のコンサートにしては、客の入りも上々で、二百五十席は八割方埋まっていた。  出演するのは、新進気鋭の若手女性演奏家十組で、琵琶、三味線、笙、箏といった和楽器による演奏がそれぞれ一曲ずつ披露される。    演目は現代曲が中心で、丁度、前半の五組が終わったところだった。  春海が目当てにしていた吉岡志保子の十七絃と相方の尺八の演奏は前半のトリにふさわしく、聴衆からは惜しみのない拍手と、なぜかブラーヴァという、邦楽の演奏会らしからぬ声援まで飛び出すほどだった。  休憩時間でホールが明るくなったのをいいことに、春海は持参してきた楽譜を広げようとしたのだったが、会場の受付でもらったパンフやチラシ一式を入れていたファイルを落としそうになってしまったのだ。  素早く手で押さえたので、かろうじて落下は免れたが、かわりに楽譜が膝の上から滑り落ちてしまった。  ところが、拾おうとして座ったまま屈んで手を伸ばすより早く、左隣の席に座っていた男が拾い上げると、どうぞ、と楽譜を差し出してきた。  ありがとうございます、と春海は礼を述べて受け取り、楽譜に目を通しはじめると、男が話しかけてきた。 「それは、さきほどの曲の楽譜ですか?」  春海は顔を上げると、男をはじめてまともに見た。彫りの深い顔立ちに、愛想よさげな笑みを浮かべている。見た目『いい男』といわれる部類に入るだろう。年の頃は三十代と思われたが、四十代かもしれない。いまいち年齢不詳なのは、勤め人ではなさそうな、鷹揚とした雰囲気があったからだ。義理で来たのでなければ、趣味で和楽器を演奏するとか、邦楽の愛好家といったところだろう。 「そうです」 「ちょっと見せていただいても?」  春海から楽譜を受け取ると、男は、物珍しげに縦書きのページをぱらぱらと繰った。 「さっぱりわからない」  最後のページのところで呟くと、楽譜を開いたまま、適当な一部分を指さした。 「だが、この数字の羅列は絃を表しているんじゃないかと」 「そうですね。箏の楽譜は、弾く絃を漢数字で表します。五線譜だと、音の高低を表しますが」  表紙には、『哀歌』というタイトルが書かれている。十七絃と尺八の二重奏で、今なお人気の高い曲だ。 「十七絃は、普通の琴とは種類が違うのですか?」  箏に興味があるのか、男が質問をしてきた。 「普通の琴というのは、多分、十三絃のことだと思うのですが」 「その違いを教えていただいても?」  実のところ、見知らぬ人間にどうして箏のレクチャーをしなければならないんだ、面倒極まりない、というのが本心である。  だが、これがどこかで仕事に結びつく可能性も捨てきれない。  春海は、生真面目に説明を試みた。 「まず、『こと』は、一般的には『おうへん』の『琴』の漢字が使われることが多いのですが、実は『たけかんむり』の『箏』の漢字で表される楽器です」 「では、『おうへん』の漢字の『琴』は間違いだと?」 「間違いというより、音楽学では、楽器の構造上、『琴』と『箏』は違うものなんです。訓読みだと、どちらも『こと』なので、まぎらわしいのですが」 「なるほど」 「十三絃は名前の通り、絃の数が十三本、十七絃の絃は十七本です。筝曲家、作曲家の宮城道雄のことはご存知でしょうか? 『春の海』という、十三絃と尺八の代表曲があるのですが」 「あれかな、正月に店内BGMに流れる曲」 「多分、そうです。宮城道雄は、通常弾かれる十三絃に対する、低音域の箏として、十七絃を考案しました。伴奏楽器として用いられることが多いのですが、今日のように独奏用としても使われます」 「例えるなら、ギターが十三絃なら、ベースが十七絃っていうところか」 「そんなところです。実際、十七絃は絃の数が多く、低音を出すために、十三絃よりも大きいし重さもあります」 「確かに結構重かったな。今日は妹に頼まれて運搬に駆り出されたんだが、『花嫁をお姫様抱っこする要領で、丁寧に慎重に持ち上げて運ぶのよ!』とか何とか、うるさく言われた。こんなゴツゴツ硬くてデカい嫁がいるか、と言ってやったが」 「十七絃の重さは八キロはありますから…って、今、何とおっしゃいましたか?」 「運ぶ時は、お姫様抱っこするみたいに…」 「その前です。妹さんに頼まれたとか?」 「そう。さっきの十七絃弾いたのが妹」  予想外の科白に、春海は一瞬固まったが、当の男は、悪戯が成功したときの少年のような表情でニヤッと笑った。 「ということは、志保子(しほこ)先輩のお兄さん…?」  春海は慌てて名刺を取り出すと、男に向き直った。 「座ったままで失礼します。私、日高と申します。大学時代、志保子先輩と同じ三曲研究会に所属しておりました。今でも先輩には何かとお世話になっております」 「これはこれは、ご丁寧に。わたしの方は手ぶらで来てしまったので、名刺交換できないんだが」  こちらは吉岡でいいから、と言いながら、男は差し出された名刺を受け取った。そこには、こう書かれていた。 ****************** 琴永堂(きんえいどう)(箏・三絃・邦楽器専門店)   楽器・楽譜・付属品一式 販売・修理    【営業】午前十時~午後七時    【定休日】水曜日 出張もします。お気軽にご相談ください。 ****************** 「和楽器屋さんか。どうりで詳しいわけだ。楽譜を持っていたから、演奏するんだろうとは思っていたんだが」  吉岡は、名刺から春海に視線を移すと、興味深々といった表情で質問をしてきた。 「和楽器店というと、かなり珍しい職種でしょう。どういうきっかけで就職を?」 「就職というか、私の場合は、家業で店を継ぎましたので」 「なんと。その若さで、ご店主とは」  まじまじと見つめられた。スーツを着ている時でも、下手をすると就活中の学生に見られることもある。今日のように私服を着ていれば、なおさら年相応の若者にしか見えないだろう。  恐らく、吉岡も晴海のことを店の従業員とでも思ったにちがいないが、店に置いている配布用の名刺を渡したのだから、無理もない。あえて個人名や役職名は載せていないのだ。  なにしろ大学を卒業して二年目の、若干二十四歳である。父が店主だった頃からの常連客はともかく、新規の客は春海が店主ということがわかると、一様に驚くのが常であった。  吉岡は他にも何か聞きたそうな様子だったが、タイミングよく、休憩時間の終了を告げるブザーが鳴った。  やれやれ、と春海は内心で溜息をつくが、顔には出さない。  聴いたばかりの演奏と照らし合わせて、何か所か楽譜をチェックしたかったが、吉岡が話しかけてくるおかげで、できなくなってしまった。  だが、先輩の兄では無下にあしらうわけにもいかないので、仕方がない。
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