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栗本は、瑞に威圧的なメールを送ったことを私に言わなかった。 本人は威圧したつもりはなかったのかもしれない。マイノリティに対しての無意識な侮蔑。哀しいことではあるが、それは非常に多い。 それについては気分が悪いが、栗本のおかげで最後の砦にたどり着いたのかもしれない。 私は瑞の手紙を携え、面会に向かった。 今日は法衣を着るのをやめ、スーツも避けた。 自宅にいるときと同じく、シャツとセーターに、スラックスで向かった。 元教誨師ではなく、ひとりの人間として。 瑞の戸籍上の父親ではなく、瑞を愛するひとりの男として私は面会室のドアを開けた。 私の姿を見た瑞は、小さく会釈をして椅子に腰を降ろした。 幾分、痩せて見えた。 少しの間、私たちは黙ったまま見つめ合った。 瑞は両方の手をきつく握り合わせていた。口を一文字に閉じている。 私はガラス板に、右手の手のひらを当てた。 「瑞」 瑞は私の手のひらを見つめた。何も言わずに、目だけで重ねるよう促すと、瑞はそっと向こう側で手のひらを重ねた。 「今日は法衣は脱いできたよ」 「先生…」 「瑞。君の最後の告白を聞くに当たって、提案がある。私を…教誨師として見るのをやめにしないか」 「え…?」 「何の肩書きにも縛られず、心のままに話してほしい。だから、『先生』はもうやめだ」 「でも…」 「私は君の親族なんだぞ。……私の下の名前を覚えているかな?」 「…もちろんです」 「じゃあ、それで」 「………」 「瑞」 「……はい……君行さん」 少し恥ずかしそうに、瑞は笑った。 ガラス越しに合わせた手に感じる熱が温かい。 「僕と純は…父のすることに耐えきれなくなって、もう死んでもらおうと考えました」 瑞は非常に落ち着いた声で話し始めた。 「正確には、心中を図ろうとしました。両親が寝静まっている時に、灯油をまいて火をつける予定でした。それなら自分たちも一緒に逝けると…」 私は言葉を失った。ひとりでに冷や汗が背中や脇の下に滲む。 栗本が予想していたよりも、もっと哀しい。 純一が「全てを終わらせる」と言ったのはこのことだったのだ。 「ですが、実は純は僕の知らない間に、違う計画を立てていて…僕を助けるために、ひとりで父を殺そうとしました」 瑞の声は震えていた。 「父が遅く帰ってくる夜、僕は純にコンビニまで買い物を頼まれました。そんなこと滅多になかったので、嫌な予感がして…僕は途中で引き返しました」 直感で引き返した瑞は、ちょうど帰宅した父と鉢合わせてしまう。 酒に酔った父はリビングのソファで嫌がる瑞を押し倒した。必死に抵抗しても、酒の入った大柄な父に敵うはずもなく、裸に剥かれ、犯された。 瑞の悲鳴に母親が起きてきた後は、以前の告白の通りだ。 汚い、と金切り声を上げながら、母親は刃物を振り回した。 瑞がいない間に実行しようとしていた純一は、出かけたはずの瑞が父親に組み敷かれているのを見て、頭に血が上った。 瑞の耳には、母の金切り声に混じって純一が「離れろ」と父に叫ぶ声が聞こえたという。 父を止めたくても、刃物を持った母の半狂乱に阻まれて純一は深手を負った。それでも、必死に父に掴みかかり、そして___________ 「背中からひとつき……身体ごと純は父にぶつかりました。その後も、刺さった刃物を抜いて、何度も何度も…父が動かなくなるまで…」 確かに、後ろから刺された傷が致命傷だったと言われている。 重症を負いながらも純一は、渾身の力で父を刺した。 瑞は、大粒の涙をとめどなく流した。 震える自分の身体を抱きしめながら、必死に言葉を繋いだ。 「ふたりで相談して、一緒なら怖くないって……心中して、終わらせようとしていたのに…っ」 瑞はガラス板に激しく両手の拳を打ち付けた。 「純はっ……俺を助けようとひとりでっ……全部背負って…っ…」 「瑞!」 私はガラス板にぎりぎりまで近づいた。 瑞は涙でぐしゃぐしゃな顔で、大声で叫んだ。 「俺だって…俺にだって殺意があった!親父に死んでほしいって思ってた!なのに…俺の身体は勝手に悦がって…そんな汚い俺を助けるために純は全部持って行った!殺意も、罪も…ひとりで……っ!!」 刑務官が泣き叫ぶ瑞を取り押さえ、独房に連れ戻そうとする。 引きずられながら、瑞は最後に叫んだ。 「純…、純!ごめん…純…っ…」 私はひとり、面会室に立ち尽くした。 止まらない涙と、ぽっかりと穴の空いた心だけが残った。 あまりも哀しすぎる、家族の物語。 自分の命と引き替えに瑞を救った純一は、兄、という言葉では言い表せないほど大きな愛情を持った人間だった。 純一は愛する瑞が生きることだけを望んだのだ。 人を殺め、自分も死んでしまっては間違った方法と言えるだろう。 そして残された瑞は、純一が背負った罪を引き受けることで彼の愛に応えようとしたのかもしれない。 私は、パンドラの箱を開けてしまったのか。 この手負いの獣を、私は支えてやれるのだろうか。
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