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「西塔先生、どうも」 S拘置所の入り口。ネクタイの結び目をしっかりと確認して、私は背筋を伸ばした。 何度もシュミレーションを繰り返した。 今日からは新しく向き合わなければならない。対面するのは。 刑務官に連れられて入ってきたその受刑者を見た印象は、今まで見てきた死刑囚たちとは明らかに違う、頼りなさと色香。 私は色香という言葉を普段、男性に対して使うことは滅多にない。それを彼に当てはめたのは、いずれ来る未来を予知していたのか。 桐島 瑞(きりしまみずき)死刑囚。収監されたばかりの、今、世間をもっとも賑わしている犯罪者だった。 「どうぞ、座ってください」 教誨師の仕事を初めて1年。 拘置所内で、執行を待つ死刑囚と面会し対話する。そして死刑執行時にも立ち会い、死にゆく彼らを見送るボランティア。 私、西塔 君行(さいとうきみゆき)は、その仕事に強く惹かれ、師である渡来からその役目を受け継いだばかりだった。 拘置所へやってくる時、法衣は着ない。スーツ上下で足を踏み入れる瞬間、普段と違う緊張感に包まれる。 私の目の前に腰を降ろした青年は、そのギリシア彫刻のように彫りの深い顔に不安を一杯に浮かべて、私を凝視した。 「桐島 瑞さん、ですね」 私の問いかけに、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、はい、と彼は答えた。直毛の長めの髪が表情を半分ほど隠している。死刑囚は、私服を着ることが許されていて、彼は白いセーターに、ベージュのチノパンという出で立ちだ。 「私は、西塔といいます」 もしここが拘置所の面会室でなければ、私はこの桐島という青年に対して、何を感じただろう。 美しい造形の中性的な顔と、均整のとれた身体。 教誨師としてはキャリアもなく年若い私を訝しげに睨みつける受刑者とは違う、長い睫に縁取られたまっすぐな瞳。両手はしっかりと握りしめられて、膝の上から移動することはなかった。事前に調べた情報を、私は身体を固くする桐島を見ながら反芻していた。 刃物で両親と兄を殺した。 母親の再婚相手だった父と連れ子の兄とは仲も良く、関係者は皆、首を傾げたという。 昨今多い、不穏なそぶりもない幸せな家族に訪れた突然の悲劇。特にメディアが飛びついたのは、桐島本人も瀕死の重傷を負い、奇跡の生還を果たした直後の自首だったからだ。 殺された父親がもっとも傷が深く、命を落としてからさらに刺された傷が多数あり、はっきりとした殺意があったと判断された。母と兄は失血死、桐島本人も多量の出血で生死の境を彷徨った。 生還した桐島は黙秘したが、刃の向きからしても自殺を図ったということで間違いないだろうと関係者の中では言われているらしい。 「傷は、どうですか。まだ痛みますか」 「……もう大丈夫です」 やっと、はっきりと桐島の声が聞こえた。 うつむき加減の顔が、やがてゆっくりと持ち上がり、私と視線が合った。 何かを言いたげに薄く唇が開くが、なかなか声にならない。私は彼が言葉を発するのを待った。 「……先生は、お坊さんなのですか」 おそらくスーツ姿を見て、疑問に思ったのだろう。私は髪に触れながら、答えた。 「僧侶です。普段はちゃんと、法衣を着て念仏も唱えます。私の宗派は、頭を丸めなくてもかまわないんですよ」 少しおどけて言ってみたが、桐島は表情を変えなかった。 「僕は話すのが苦手です。せっかく来ていただいても、先生の時間を無駄にしてしまうかもしれません」 教誨師は私の他にキリスト教の牧師もいて、選ぶのは受刑者自身。桐島が私を選んだのは、牧師に接したことがないからではないかと思う。実際この拘置所では敬虔なクリスチャンでない限り、多くの者は僧侶を選ぶ。 私は言った。 「私の時間を気にしてくださって、ありがとう。でも、私はあなたと話すべくしてここに遣わされたのだと思っていますよ。だから、この時間はふたりで使いませんか?」 桐島の目が大きく見開かれた。また、口だけが開いて、言葉が出てこない。これは桐島の癖なのか、環境がそうさせるのか。 「……ありがとう…ございます」 それから少しずつ、私と桐島は会話した。 最初はなんてことのない天気の話や、好きな本の話。桐島は読書家だったらしく、独房で作業をして得た金は全て、本に使っていると言った。 このように私と桐島の出会いは穏やかなものだった。 桐島25歳、私が37歳。 もしも師である渡来氏が体調を崩していなければ、私たちは出会わなかった。 なにものかに「遣わされた」のだと私は今でも信じている。
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