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桐島の再審請求については、トップニュースで取り上げられた。
凄惨な事件だっただけに、ワイドショーでは連日コメンテーターが桐島が一転して無罪を主張したことを叩いた。毎日毎日桐島の顔写真が大きく映し出され、私はその都度チャンネルを変えた。
私が桐島の弁護士と会ったことは、前職の渡来氏の耳にも入っていた。
彼の寺に呼び出されたのは、再審請求が決まってすぐのことだった。
「再審請求をしたそうだな」
渡来氏は20年間S拘置所の教誨師を務め、体調不良を理由に役目を退いた。その後任が私だが、彼は退任後も受刑者たちを気にしていた。
教誨師が受刑者と話したことは口外禁止だが、メディアの報道でだいたいの状況を読みとった渡来氏は、私に詳しく聞くこともなく言った。
「はい。先日受理されました」
「…これから長い戦いになるだろう」
出されたほうじ茶をすする。湯呑み茶碗を置くと、渡来氏のするどい視線が私を捉えていた。
「西塔くんに後任にして正解だったようだ。まっすぐすぎるぐらいに向き合っているようだな」
「……ありがとうございます」
「身体は平気か?」
教誨師の仕事を始めてから、確かに少し痩せていた。日々考えることが多すぎて追いつかず、普段通り食べても体重が減っていることが多かった。
「少し体重が落ちましたが、覚悟の上です」
「……そのひたむきさが危険なこともあるのだぞ」
「渡来先生…」
「目を見ればわかる。…冷静な判断が出来る余裕を失ってはいかんぞ」
「…はい」
「受刑者の心を穏やかにし、人間の尊厳を取り戻す手伝いをする…それが教誨師の仕事だ」
「……はい」
渡来氏はそれ以上は何も言わなかった。
その後は15分ほど他愛もない話をし、手土産に持って行った羊羹を食べた。
桐島のことを詳しく話す必要はなかった。おそらく私が、聖職者にあるまじき邪な想いを抱いていることを彼は見抜いていた、と思う。
自らを律せよ、と言われた気がした。
合掌して、私は渡来氏の寺を後にした。
仏の道を目指したのは、両親が亡くなった時のことだ。
事業を失敗した父親は母親と二人で自家用車に排気ガスを引き込んだ。
まだ幼かった私と姉が、泊まりがけで祖父母の家に遊びに行った日のことだった。
小学校高学年だった姉はものがわかる年齢だったのでひどく泣きわめいていた。私は小学校にあがる直前で、どう悲しんでいいのかもわからなかった。
祖母に抱かれ参列した葬儀で、周囲のすすり泣きの中で位牌の前に座る僧侶の大きな背中と、歌うような読経に釘付けになったことだけを覚えている。
中学を卒業する頃には、自分は僧侶になるものだと思っていた。
寺の息子でもないのに、と祖父母にはずいぶん驚かれたが、私にはほかの道は考えられなかったのだ。
心の拠り所をなくした私は、あの大きな背中に仏の存在を見、知らずに救われていたのかもしれない。
結婚もせず、家族は姉ひとり。その姉も今は、夫と子供ふたりと幸せに暮らしている。
本当に桐島の冤罪が証明された折りには、私は彼を引き取るつもりでいた。
僕は先生の何になるんですか、と桐島は聞いた。
桐島に対する気持ちを明確に言葉に表すことは難しい。人間的にはもちろんのこと、愛おしい、守りたいという気持ちがあることも確かだ。
同姓に恋愛感情を持ったことはない。
そもそも、一人前の僧侶になるための修行ばかりで、身を焦がすような恋愛などせずにこの年齢まで来てしまった。
だからこれが恋だとはまだ自分自身認められないでいる。
むしろ淫らな気持ちがないと言い切れないのが、余計にやっかいだ。
前回の面接の最後に、私は自ら桐島に口づけをした。
今でも彼の唇の感触が残っている。
拘置所ではそれほど頻繁に風呂を使わせてもらえないはずだが、桐島からは清潔な石鹸の香りがした。
面接室を出て行く桐島は、一度だけ私を振り返り、わずかに頭を下げてから扉の向こうに消えた。
口づけした後、驚いた桐島の顔が少しだけ赤らんでいたのは、私の勘違いだろうか。
「瑞……」
人通りの少ない帰り道、私は桐島の名前をつぶやいていた。
いつか自然に、瑞、と呼べたらいい。
そんなことを考えながら。
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