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「先生、お辞めになるというのは本当ですか」
最終日、面会室を出た私に、ひとりの刑務官が声をかけてきた。
何度か顔を合わせていたが、面接の警備担当になったことはなかった。
大柄で恰幅のいい男で、私より5、6歳年上といったところか。
「ええ。短い間でしたが」
「残念です。受刑者たちは先生になってから、積極的に教誨を受けるようになりましたので」
「…そうでしたか。後任の榊先生は私の先輩ですので、きっと心配ありませんよ」
刑務官たちはもちろん、私が桐島を養子に迎えることを知っているだろう。稀にあからさまな表情をする好色な刑務官もいるが、ほとんどはいつも通りの対応をしてくれた。
しかし私は直感で、声をかけてきたこの男があまり「良くない」輩であることを読みとった。
「養子に迎えられるとか」
桐島の名前を出さずに言うあたりが、嫌みだと感じた。知っているぞ、と言わんばかりだ。
ある程度は覚悟していた。私は出来るだけ穏やかに答えた。
「……個人的なことですので」
「ええ、そうでしょう。あいつは個人的なことにつけこむのが得意ですからね」
「受刑者をあいつ呼ばわりとは、関心しませんが」
「…これは失礼、ご子息になるんでしたね」
「そういうことを言っているわけではありません」
「桐島と何があったんです?いや…何をしたんです?」
「…失礼します」
「先生が来なくなると…寂しがるでしょうねえ」
通り過ぎようとしたのをやめて私は振り返った。
にやにやと下衆な表情を浮かべた刑務官の胸に、役職のバッジを見つけたのはその時だった。
「大丈夫ですよ、あいつが寂しがらないよう、可愛がってやりますから」
怒りがこみ上げ、拳を握りしめた。
「殴りますか?先生、そんな細腕じゃ怪我しますよ」
「黙りなさい。あまりに失礼なことを言うと許しません」
「…お気をつけてお帰り下さい」
刑務官は慇懃無礼な口調で言って頭を下げた。
ねめつけるだけで私は踵を返した。殴りかかったところで何の解決にもならない。それよりも、桐島が心配だった。
以前話していた、夜な夜な房へ侵入してくるのはおそらくあの刑務官だろう。断ったら殴られた、と言っていた。
これからもそんなことが増えるのだろうか。
しかし私にはどうしてやることも出来ない。
親族として面会に行き、手紙を書きながら無実が証明されるのを待つしかないのだ。
それを選んだのは桐島の無実を私が信じ、晴れて冤罪という判決が出た時に彼を迎え入れたいと思ったからに他ならない。
教誨師という肩書きがなくなっただけで、私はこんなにも無力だった。
いや、教誨師であっても無力なのは同じだ。
教誨師を辞めた本当に本当のところは、もし再審請求を待っている間に死刑が執行されることになったら、桐島を見送らなければならないからだ。
そんなことが耐えられるとは思えない。
私はもやもやしながら、師である渡来氏のところに向かった。
紹介してもらった教誨師を辞めたこと、死刑囚と養子縁組したことを伝えなければならない。
「……そうか……」
「事後報告になってしまい、申し訳ないのですが…」
「………」
渡来氏は腕を組み、遠くを見たまま口をつぐんだ。
当然、意見されるものだと覚悟して私は師の顔を見つめた。
「君は聡い男だ…よく考えて決めたことだと思う」
「………」
「桐島という死刑囚が本当に冤罪であったなら、次の人生を導いてやれるかもしれん。しかし……もしそうでなかったら、君はどうするつもりだ?
冤罪が証明されない場合や、再審請求中に刑が執行される場合だってあるのだろう?」
「…それは…私も考えました。しかし、何度考えても、こうするのが最善だと思ったのです」
「……西塔くん」
渡来氏の瞳が私をまっすぐに捉えた。
何を言われるのか、分かったような気がした。
「…人を救うのは…人ではない」
「……はい」
「救うのも裁くのも…仏の導きだとは思わないか?」
「……はい」
私と渡来氏はしばらくそのまま向かい合っていた。
師の視線に丸裸にされたようで私はいたたまれなかったが、決断を取り消すつもりはなかった。
「……彼の人生の隣を歩こうとしているのかね」
師の言葉は、私の思いそのままだった。
が、認めるのが怖くて私は言葉を濁してしまった。
「そう…かもしれません」
「……わかった」
渡来氏はひとつ息を吐いた。目をかけていた弟子の浅はかとも言える決断を、まるごと受け入れてくれた。
「西塔くん」
「はい」
「これから言うことは、一人の人間として聞いてほしい。聖職者でもなく、宗教家でもなく」
「…はい」
渡来氏は卓の上で手を組んだ。そして、少しだけ身体を前のめりにして言った。
「…君の目には、まだ見えていないことがある。それが見えるようになるには、長い時間がかかる。君は今、灯りの無い道を歩いている」
渡来氏は一度言葉を区切ると、まるで俳優のような声色で言った。
「真っ暗な道を、君は桐島死刑囚を連れて歩こうとしているんだ。先の見えない道だが、おそらく休まずに歩き続ければ出口にたどり着く」
私は、洞窟のような道を桐島の手を引いて歩いている自分を想像した。
死刑が確定した受刑者の冤罪を信じて、かつ引き取り社会復帰させるなど、まさに一寸先は闇だ。再審請求がうまくいくかすら定かではないのに。
「でも、その途中、君はひとりきりであらゆることと戦わなければならないぞ。桐島の手を握ったまま、片方の手だけで、だ」
「……はい」
「君がどんなに強い心で立ち向かおうと、風当たりは強い。むしろ桐島が向かい風に挫けてしまうことだってあり得る…泣き言を言って、もう歩けないと言うかもしれん。そうなった時、君は二つの選択肢を持っていることを忘れるな」
「二つ…ですか」
私には、どんなことがあっても進み続ける、という道しか思いつかなかった。
渡来氏は、ひとつひとつの言葉を丁寧に発した。
「ひとつは、手を離さず歩き続けること。もうひとつは…その手を離すことだ」
「…え…?」
「君の歩みを止めるのは、何も外的要因だけではないということだ。懐疑心が君の手を引っ張ることだってある。自分も相手も信じられなくなった時には、迷わずその手を離して自分を守りなさい」
「渡来先生…っ…私は…」
「…この言葉を忘れるな。いつか必ず解るときが来る」
「………」
師の言葉は、この時の私には半分しか理解できなかった。
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