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「それで、先生、わたしに聞きたいこととは?」 「先生はやめてください、今はもう…」 「いいじゃないですか、あだ名みたいなものだと思ってくださいよ。わたしもその方がお話しやすいので」 「そう…ですか、それでは…」 刑務官の名は、三倉と言った。 瑞が収監された当時から働いており、教誨の面接の警護にも何度かついたと三倉は話した。 「三倉さん、話しづらいことだとは思うのですが…」 私は何年も前の、瑞が刑務官から受けた仕打ちについて話した。 三倉は黙ってうなづきながら私の話を聞いていた。そして次第に表情が険しくなってゆき、最後には下を向いてしまった。 「大変お恥ずかしい話ですが……その話は耳に入っていました。ですが、どうにも止めることが出来ず…申し訳ありません」 「役職のある刑務官だったと聞いています。なので止められないのは仕方なかったのでしょうね…」 「仕方ない…で、済まされる問題ではないのですが…実は当時、彼が…桐島死刑囚が、黙っていてほしいと言ったのです」 「え…?」 三倉は昔の呼び方で「桐島死刑囚」と瑞を呼んだ。 「私とペアを組んだ刑務官が副看守長に気づかれないように、大丈夫かと桐島死刑囚に聞いたことがありましてね。その時、言ったんですよ。先生に心配をかけたくないので、黙っていてくれと」 「私に?」 「ええ……僕には先生しかいないので、先生に軽蔑されたくないのだと…」 軽蔑? 確かあの時、瑞は私が被害にあっていないかと聞いて、強がって開き直った。しかし私が引き取ると申し出て、瑞はそれを受け入れてくれた。 軽蔑されたくない、というよりも、自分の性癖が呼び込んでしまうものに対して諦めているように見えたのに。 「桐島死刑囚は、当時先生と話すようになって、みるみるうちに元気を取り戻したんですよ。食事の量も増えましたし、積極的に作業もするようになりました。先生に何かを誉められたときは、嬉しそうに房に戻って来たものです」 「知りませんでした…あの頃、私には分からないことが多くて…」 三倉は優しく笑った。腕を組んで、少し明るい調子で彼は続けた。 「わたしごときが言うのもなんですが……冤罪かもしれないって聞いたとき、やっぱりなあと思ったんです。長い間受刑者と関わっていると、サイコパスなのか、いたしかたなく犯罪を犯したのか、見えてくるようになるんですよ。最初から桐島死刑囚は何か違うんじゃないかと思っていました」 「……まだはっきりはしていませんが、そうだと信じています」 「ええ、そうであってほしいですね。ここを出るときは…見送ってやりたいと思っていますよ」 「三倉さん…」 「そして、先生が聞きたいのは今も桐島死刑囚が悪戯されていないか、ということでしょう?」 しっかり見透かされて、私はこくりとうなづいた。 「今は…無いと思いますよ。当時そういうことをしていた刑務官は昇進して、見回りなどしなくなりましたからね。ただ…」 「ただ?」 私は先ほど会った矯正副長の顔を思い出していた。 夜な夜な私の名を呼んでいる、そう言ったのだ。 「桐島死刑囚に特別な思いを持っている刑務官が、まだ何人かいると聞いたことはあります。本人たちは決して言いませんので、誰かはわからないのですが」 「……さきほど矯正副長に嫌なことを聞きましたが、それは本当でしょうか?」 私は言葉を選んで、矯正副長の言ったことを三倉に伝えた。 三倉は眉間を寄せ、腕組みをし直した。 「それが本当だったら、副長の息がかかった輩がいるということですね」 けしからん、と三倉は憤慨した。 彼ほどのベテランになれば、若い刑務官に意見することも出来るだろう。 「先生、私に出来ることなどたかが知れていますが、出来るだけ目を光らせておきます。気心の知れた刑務官にも声をかけておきますから。…本当に申し訳ない」 三倉は立ち上がり、90度に身体を折り曲げた。 「こちらこそ、話しづらいことをありがとうございます」 「お世話になった先生の息子さんになったんですから。こんなことを言ったのが知れたら首になるかも知れないが、彼には幸せになってほしいですよ」 私は瑞に関わってからはじめて、同じ思いを持つ人間に出会った。 絶対に口に出せなかった本心。 犯罪者の幸せを願うなど、許されない立場だった。 「息子」と言われたのが腹立たしくなかったのも、三倉が初めてだった。 私は三倉に礼を言い、救護室を出た。 出口まで送ってくれた三倉が、最後にあ、そうだ、と私を呼び止めた。 「先生、あの、知っていますか、昔話…外国の…」 「昔話?グリム童話ですか?」 「そうそう、そんなやつです。地獄に死んだ嫁さん迎えに行く話…」 「ええと……、それは多分、ギリシア神話かな」 「神話?童話と違うんですか?」 三倉はそういうことに疎いらしく、頭をかいてはははと笑った。 「そのナントカ神話にありませんか、地獄に迎えに行く話」 「オルフェウスとエウリディーチェ、ですね」 「お、おるふぁ…?」 カタカナに首を傾げる三倉に思わず笑ってしまった。 思い出した勢いで三倉は、その神話について話し始めた。 「そのムツカシイ名前はよくわかりませんが、わたし、好きなんですよ、その話」 オルフェウスとエウリディーチェ。 毒蛇に噛まれた妻エウリディーチェを取り戻すために冥府に向かう、夫のオルフェウス。番人たちが彼の素晴らしい竪琴の音色に魅了されている間に、オルフェウスは冥府の王の前にたどり着く。 美しい竪琴の音色に免じて妻を返してもらうことは出来たが、「地上に着くまで決して後ろを振り返ってはならない」という条件をつけられる。 オルフェウスは王に言われたとおり振り向かずに進んだが、不安がるエウリディーチェを抱きしめたいばかりに、地上ぎりぎりのところで振り向いてしまう。 オルフェウスが約束を破ったためエウリディーチェは冥界に連れ戻され、二度と会えなくなってしまう、という物語だった。 広く知られているのはここまでで、この後オルフェウスは女性を愛せなくなり、酒の神の祭りで言い寄ってきた女たちに「私たちを馬鹿にしている」という理由で八つ裂きにされ、死んでしまう。 死んだオルフェウスはやっと冥界に戻り、エウリディーチェと結ばれるという、哀しくも壮絶な神話だ。 三倉が神話の結末まで知っているのかはわからない。彼は穏やかに笑って言った。 「先生と桐島死刑囚を見ていると、その話を思い出すんです。失礼かもしれませんが…先生がね、一生懸命に桐島の手を引いて歩いているように見えるんです」 死んだ妻を諦めきれず死後の国まで迎えに行ったオルフェウスが私なら、死刑囚の瑞はまさに、冥府で待つ妻のエウリディーチェ。 三倉のロマンチックな例えに気恥ずかしくなりながら私は話を聞いていた。 「死刑囚っていうのは、再審請求をしていても毎日刑の執行に怯えて暮らしています。不安で孤独で…地獄にいるのと同じだと思いますよ。でも、誰かに手を引いてもらえたら…少しは頑張れるのではないでしょうかね」 「三倉さん…」 「先生、諦めずに歩き続けてください。振り向かないで」 「……ありがとうございます」 私は深く頭を下げた。三倉も帽子を取って頭を下げると、思い鉄の扉を閉めた。 私は歩きながら、師の渡来氏から同じような話を聞いたことを思い出した。 瑞と私は多くの壁を乗り越えてきた。それは暗い過去だったり、瑞の生まれ持った性に対する負い目だったり、不穏な出来事だったり、栗本のような第三者の言葉だった。 これからも、いくつも壁はそびえ立ち、その都度私たちは乗り越えなければいけない。 渡来氏は、自分も相手も信じられなくなったら手を離せと言った。 それは弟子である私の身を案じてくれた、彼なりの愛情だ。 だが、瑞が歩くことを諦めたとしても、私は絶対に手を離さない。 彼を背負ってでも、振り向かずに進み地上にたどり着いてみせる。 どんな結末が待っているのか、今はわからなくても。
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