碧につながる

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「おまちどおさま」  よく響く声と共に、そばを盛ったせいろがテーブルに置かれた。入り口の方からはちりん、と風鈴の音が聞こえてくる。 「ありがとうございます」  運んできた店の主人に礼を言いながら、いかにもこの地域らしい人だな、と恵璃奈(えりな)は思った。五十を過ぎたくらいだろうか、短く刈り上げた髪に白いものが混じってはいたが、目は鋭くいきいきとしていて、奥底にある情の深さを感じさせる。  主人はすぐに店の奥へ引っ込まず、恵璃奈に話しかけてきた。特に有名な観光名所というわけでもない、交通の便も良いとは言えない海沿いの小さな町だ。見慣れない人間、それも流行りの洒落た服に日焼けしていない肌、特徴的な青い瞳を活かしたメイクと、明らかに都会から来たと分かるいでたちの恵璃奈は、このそば屋にとって滅多にない珍しい客なのだろう。 「お嬢さん、この町に来るのは初めてかい」 「いえ、何年か前に一度。二、三週間」 「へえ。親戚でもいるの」 「誰もいません。……ああ、でも、会いたい人なら」  ひとり。と、緊張した面持ちからふと目元を緩ませた恵璃奈を見て、主人はテーブルに片手をつき、もう片方の手を顎にやった。 「ほお。なんて人だい」 「名前は分からないんです。前にここで過ごしたときに出会った人で」 「まさかあんた、この暑い中名前も知らねえ人を探しに来たのか」  片方の眉をつり上げた主人に訊ねられ、恵璃奈は痛いところを突かれたな、と苦笑した。 「ええ……まあ、無理だとは思ってるんですけど。それでも来たくて。ここであの子に会わなかったら、今の自分はないですから。……それに、もし会えるなら今年、この休暇中がチャンスな気がしたんです」  先を促すように黙っている主人から窓の外に広がる海へと目を移した。照りつける陽射しに輝く水面はあの夏と同じ碧をしていると懐かしく思いながら、恵璃奈は再び口を開いた。
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