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2夜
父と吟太、そして初音の三人が、父と母の実家がある、折穂村というこの小さな山村に着いたのは、その日の夕方のことだ。
お盆の帰省ラッシュで人が一杯の新幹線や電車を乗り継ぎ、ようやく降り立った駅のホームに、人影はほとんどなかった。その代わりとでもいうように、駅前の広場にある、もうずいぶんとペンキが剥げ落ちてしまった大きなたて看板が、例年どおりそこにいて初音たちを迎えてくれた。
祖父母の家は村のはずれの、山の麓にあったので、初音たちは駅からしばらく歩かなければならなかった。暑さと疲れからか、もう歩きたくない、とごねる、四つ年下の、今年小学校にあがったばかりの弟、吟太の手を引きながら、初音は父の後について黙々と歩き続けた。
途中、電柱から地面へと伸びた電線に、民家の庭先から伸びた朝顔の蔦が幾本も絡みつき、家の屋根の高さにまで達しているのを、初音は見た。道端の田畑からは虫の音が聞こえ、通りすがりにその前を通った神社の境内では、蝉たちがしきりと鳴いていた。
やがて祖父母の家に辿り付くと、初音たちを除いた親戚全員が顔を揃えていて、既に夕食の準備が整っていた。
夕食を終えた後、子どもたちはみんな、祖母に追い立てられるようにして順番に風呂に入った。風呂から上がると、おばさんたちがスイカを切って出してくれた。祖父母の家の井戸水でよく冷やされたスイカは、とても瑞々しく、甘かった。
初音はスイカをスプーンで口に運びながら、大人たちの会話に耳を傾けていた。子どもたちもぽつぽつと言葉を交わしていたけれど、ほとんどの子はスイカを食べるのに夢中だったので、会話は大して弾まなかった。
大人たちの話は、始めのうちはお互いの近況報告ばかりだった。その内に、初音が会ったことも無い曾祖父や曾祖母、その兄弟たちといった、故人の思い出話へと移っていった。
三年ほど前に亡くなった、初音と吟太の母、謡子の話題も出たようだった。母と父とは幼馴染だったということもあり、話は母の子どもの頃のことにまで及んでいた。
「そうそう、確か、今の初音ちゃんぐらいの頃じゃなかったっけ。謡子さんが、裏の山で神隠しにあったの」
そう言ったのは、父の一番下の弟にあたる、正美叔父さんだった。そのとき初音は、スイカを食べ終わった従兄弟たちと一緒になってトランプゲームに熱中していてあまり熱心に大人たちの会話は聴いていなかった。けれど、この言葉だけはやけにはっきりと耳に残った。「神隠し」ってたしか、突然人がいなくなっちゃうことだ。子どもが天狗に連れ去られるなんて話を前に本で読んだことがある。そんなことをぼんやりと初音は考えた。
それからしばらくすると、大人たちの会話は途絶えがちになり、やがて静かになってしまった。大人たちは、それぞれ畳の上であぐらをかいたり、横になったりして、テレビのナイターをじっと観ていた。子どもたちも、やがてトランプゲームに飽きだして、なんとなくしらけたような空気がその場に漂い始めていた。
すると突然、畳に寝そべっていた正美叔父さんがやおら起き上がり、子どもたちの方へと向き直った。そして、折角夏休みにこうして集まったのだから、怖い話でもしてあげようか、と声を掛けてきた。その言葉に、初音を含めた子どもたちはちらりと顔を見合わせた後、叔父さんに向かって頷いて見せた。みんなでそそくさとトランプを片付け、座敷の隅に移動した叔父さんを、囲むかたちで車座になった。初音が端のほうに座ると、吟太がその隣に並んだ。
東京の小さな出版社に勤めていて、今はある雑誌の副編集長をしているという正美叔父さんは、学生時代に落語研究のサークルに入っていたこともあってか、その語り口はとても上手で、そしてとても怖かった。
みんな夢中になって話を聞き、一つ終わるごとに、ほかにはないのと、誰かが叔父さんに次の話をせがんだ。しかし、部屋の時計の針が九時を指した頃、突然正美叔父さんの携帯電話の着信音が鳴り出して、話は途切れた。携帯電話の着信表示を確認すると、叔父さんは顔を曇らせた。
「うちの若手の記者からだ。また何かトラぶったのかな。悪いね、今夜はここまでにさせてもらうよ」
そう言って電話に出ると、そのまま座敷から出て行ってしまった。子どもたちはみんな、戸惑い半分、しらけ半分、といった面持ちで、互いに顔を見交わし合った。今度はウノでもやろうか、と誰かが言ったが、誰もそれに賛同する子はいなかった。代わりに、いとこの一人が、もっとお話ききたい、といかにも不満げに主張した。
「あたしがしようか、怖い話。叔父さんのほど面白いかはわからないけど」
そう言って初音たちの方へ近づいてきたのは、従姉の晴海さんだった。彼女は大学生で、大学では昔話の研究をしているときいたことがあった。昔から妖怪や神話に詳しくて、色んな話をきかせてもらったものだ。
彼女の母親の路江さんが以前、あの子にあの怪しげな趣味さえなくなればねえ、と愚痴っていたことがある。実際、彼女はスタイルもセンスもよく、顔立ちもどちらかといえば美人な方で、なんでも器用にこなせる人だっだ。
しかしいったん口を開けば、ヤナギタクニオがどうの、オリクチシノブがどうの、ミナカタクマグスがどうの、などなど、初音にもよくわからない人の話ばかりが飛び出す、といった具合であった。それが彼女にとって、自然と「虫よけ」になってきたのだろうと、簡単に想像できた。自分のよく知らないことについて詳しくて、あれこれと話したがる女の人って、大体男の人からは煙たがられるものだと、路江伯母さんが言っていた。
今度は輪の中心に晴海さんをすえて、お話の会は再開された。晴海さんはひとつ咳払いをしたあと、少しとりすました感じで話し始めた。その動きに合わせ、彼女の耳元でピアスが揺れ、きらきらと光を放った。
「みんな、この唄知っている?」
そう言いながら、晴海さんは歌い始めた。
さくら たちばな もものはな
お山が焼けたら かくれんぼ
月を追いかけ かかさまは
青々 あおい 海のそこ
星をもとめて ととさまは
赤々 あかい 空のうえ
さがす者 とて 誰もなく
お山は もとには もどらない
あおい かきのき おみなえし
お山は もとには もどれない
初音をのぞいた子どもたちはみんな、顔を見合わせて、知らない、と口々に声を上げたけれど、初音だけは知っていた。その唄は、古くからこの土地で伝えられている童謡だと母からきかされていた。子どもたちの返事に、晴海さんは、初音が母から受けたとおりの説明を加えた後、話の先を続けた。
「だったら、この歌にまつわる昔話も、知らない?」
この言葉に、みんな大きく首を縦に振った。それを満足げに見まわした晴海さんは言った。
「そのお話はね、昔この村で実際にあったことを元にしたものなんじゃないかって言われているの」
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