4夜

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4夜

 今はいったい何時なのだろう、と初音は周囲を見回して、時計を探した。部屋の奥にある小さな振り子式の掛け時計は、暗さのために文字盤も針もよく見えなかったけれど、もう夜中に近い時刻であることだけは分かっていた。  もしかしたら、晴海・天馬姉弟をなだめ、いとこたちを眠らせた後に、大人たちだけで仕切り直しの宴会でもやっているのかも知れない、と初音は考え直した。  自分の布団に潜り込み、何の気なしに天井を見つめた。天井に張られた板には、年輪で不思議な模様が描かれていた。電気をつけていたときには何の変わったところもない焦げ茶の線でしかなかったそれは、宵闇の中で、何とも言えず初音の目を惹きつけた。  やがてその木目の一部が、向かい合った人の顔の形をしていることに気付いた。初音から見て、右手が仙人のように髭を長く伸ばした老人。左手は仁王像を思わせる、文字通り鬼のような形相をした男だ。  しばらくそれを眺めているうちに、二人の会話までもが聞こえてくるような気がした。左の男が、右の老人に向かって何か言っている。何かを責めているような、それでいて、どこか救いを求めるような口調で。老人はそれに答えようとはせず、悲しそうに目を伏せて、しきりに何かを呟いている。  初音はあわてて、天井から視線を逸らした。これ以上見ていたら、何か嫌なものまで見えてしまうのではないか、そんな気がした。  しばらくの間、眠れずに何度も寝返りを打っていた。しかし、その内にとうとう我慢できなくなって、吟太を起こさないように気を付けながら、そっと寝床から抜け出した。晩に食べたスイカがいけなかったのかも知れない。  部屋の中は薄暗く、奥のほうはほとんど見えなかったけれど、庭に面した障子戸の近くは明るかった。外から射す青白い光が、畳の上に白と藍色の格子模様を描いていた。  できるだけ足音を立てないようにしてそれを踏み越え、そろそろと障子戸を開けた。もしも起こしてしまったら、怖がりの吟太のことだから、自分もついていくと言い出し兼ねない。  冷たい空気が頬にあたった。軒下に生い茂る、ドクダミやカキドオシのつんとした匂いが、鼻を突く。  夜の庭はやけに明るくて、辺り一帯を青白い光が照らし出していた。月灯りによってできた影がくっきりと地面に伸びて、まるでスポットライトが当たったお芝居の舞台のようだと思った。  見上げると、紺色をした空の真ん中に、月が一つ、ぽっかりと浮かんでいた。大粒の真珠を思わせる、満月だ。月の周りで、申し訳ほど度にうっすらと棚引いている雲の縁が、きらきらと虹色に耀いていた。  初音はそれにしばし見とれてしまったが、すぐさま我に返って歩き出した。  手洗い場へ行くには、屋敷をぐるりと取り囲む縁側を、北を目指して歩いて行った先にある、渡り廊下を通らなければならなかった。  廊下には壁がなく、雨に濡れるのを防ぐ為の屋根が付いているだけだった。庭の様子がよく見えたし、そこからそのまま庭に出ることもできた。用を済ませた初音は、月の光に浮かび上がる庭を横目に見ながら、急ぎ足で渡り廊下をもと来た方へと進んだ。  そのとき、庭を横切る人影に気付いて足を止めた。見ると、夜の庭を、どこかおぼつかない足取りで誰かが歩いて行く。こちらに背を向けているので、顔は見えない。その後姿に目を凝らしてみた初音は、思わず声を上げた。 「吟太?」  遠くてあまり自信は持てなかったけれど、白い寝間着を着たその後ろ姿は、弟のそれとよく似ていた。いとこたちはみんな初音と同じくらいの年か、少し年上の子ばかりで、吟太と同じくらいの子は、まだ幼稚園に通う正美叔父さんのところの、一番下の、髪の長い女の子だけだった。ここは家の敷地の中で、よその子どもが迷い込んだなどということは考えづらかった。  とっさに、目を覚ました吟太が自分の不在に気付いて探しに来たのかもしれない、と考えた。あんな所をうろうろしているのは、きっと寝ぼけているせいなのだろう。  初音はあわてて、裸足のまま庭へと降り立った。渡り廊下から弟のところまでは、いくらか距離があった。  レモンバームやローズマリー、タイムやセージにゼラニウムといったハーブ類が整然と植えられた小さな花壇の脇を通り、貝殻のような真っ白い花をその根元に落とすキョウチクトウの下を抜けた。 「吟太!」  しかし吟太は、初音が呼んだことには一向に気付かない様子で、庭をずんずん進んで行く。どうやら、庭のぐるりを取り囲む漆喰の塀の方へと、吟太は向かっているらしかった。彼の向かっている辺りには、庭から外へ出る為の木戸がある筈だ。  そう気付いて、もしかして、外に出るつもりなのかも知れないと、初音は考えた。念のためもう一度、弟の名を呼んでみたが、呼ばれた当の本人は、振り向く素振りすら見せなかった。  背の高いトウモロコシ畑の、畝と畝との間を初音が通り抜けたときには、吟太の姿はどこにもなかった。木戸の方へと目をやると、案の定、木戸は開いていた。誰かがついさっき出て行ったことを示すように、ぎいぎいと微かな音を立てて前後に揺れている。  錆びついたドラム缶を避けて通り、立ち並ぶムクゲの木の後ろ側へと回り込んだ。そして、既にその動きを止めた木戸の取っ手を掴んで開け、そっと外の様子を窺った。  木戸の向こう側は、鬱蒼と木々が生い茂る雑木林だ。木戸の辺りから伸びた小道が、山の方へと向かって上がる斜面を走り、奥の方へと続いている。  月の光は木々によって遮られ、林の中は薄暗かったけれど、木の葉の合い間からいくらか差し込んでいて、点々と道を照らしていた。その中を行く吟太の後姿を見止めて、初音は突然不安に駆られた。そして、誰か大人の人を呼んでこようかと考えた。  この家の裏に聳える折穂山には、ずいぶん昔に廃坑になった炭坑の跡が今でもそのまま残っている。とても危ないからと、子どもだけで山に入ることは固く禁じられていた。  しかし何よりも、さっき聴いた晴海さんの言葉が、初音を思い止まらせた。 ーー今夜あたり、誰かが神隠しに遭うかもねーー  吟太はどんどん雑木林の中を進んでいく。今から大人たちを呼びに戻っている間に、吟太が危ない所まで行ってしまったら大変だ。  大きな声でまた弟の名を呼んでみたが、やはり気付いた様子はなかった。しばし躊躇した後、意を決して外へと出て、緩やかな坂道を駆け出した。
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