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5夜
もし、夜中に抜け出したことが大人たちに知られたら、自分も吟太もひどく叱られてしまうだろうから、急いであの子を連れて帰ろう。父が寝室へとやって来て、自分たちがいないことに気付く前に。例えそうなってもならなくても、吟太は後でちゃんと叱っておかないと。
そんなことを考えながら、弟の後姿を目印に小道を辿った。
突き出した野イバラの枝に寝巻きの裾をひっかけたのを振り払い、道の方へと伸びるツタカヅラを踏みつけた。途中、道に生える草や、落ちている小枝で足を少し切ってしまった。
なんだか惨めな気持ちになりながらも、前方に見える吟太との距離を少しずつ縮めていった。と、吟太が足を止めたので、ここぞとばかりに吟太に駆け寄り、その右腕を右手で掴んだ。
「こら、吟太!」
吟太が振り向いた。しかし、振り向いた相手の顔を見て、ぎょっとした。吟太だと思っていた少年は、吟太ではなかった。蒼ざめて、どこか悲しげで、虚ろな目をしたその顔は、見覚えのないものだった。
その腕をつかんだまま、初音はぼうぜんと言葉を失ったまま相手の顔を見つめていたが、突然自分の腕にもぞもぞと動くものを感じて腕を見やった。
すると、どこからわいてきたのか、黒いカメムシのような虫が手首の辺りから肘のところまで這い上がってくるところだった。慌てて少年の腕から手を放し、腕を振り回して虫を振り払った。
すぐさま我に返り、目の前の少年に声を掛けようと、その顔を見やった初音は、自分の目を疑った。始めは、少年の顔に虫がくっついているように見えたが、実際はそうではなかった。うじゃうじゃと絡み合っていているムカデやクワガタ、カミキリムシやカブトムシは、少年の顔そのもので、虫たちがその顔を形づくっていた。
とっさに頭の中が真っ白になって、ぼうぜんとして少年の顔を見つめた。やがて我に返り、自分が掴んでいる少年の腕に目を落とした。こちらもやはり無数の虫が腕の形をとっているだけで、生身の人間のものではなかった。
そこから這い出してきた、脚の長い、羽の生えた黒い虫たちが、初音の顔を目がけて飛んできたところでようやく叫び声を上げ、それらを振り払った。
顔を上げて、人の形をした虫の群に目をやるのと、その形が崩れだすのとは、ほとんど同時だった。空を飛ぶものは空を飛んで。地を這うものは地を這って。虫たちが四方八方へと散らばっていくと、残ったのは青い寝巻きの上下だけだった。
虫が一匹残らずいなくなったのを確認してから、恐る恐るしゃがんで、地面に落ちた白い着物を摘み上げた。しかし、そのとたん端から砂のようにさらさらと音を立てて崩れだし、やがて跡形もなく散ってしまった。まるで脅かそうとでもするように、コノハズクの陰気な呟きが周囲に響いた。
自分は夢を見ているのだろうかと、初音は考えた。でなければ、こんなおかしなことが起こる筈はないもの、と。しかし、さっき切った足の痛みも、辺りに立ち込める仄かな草木の匂いも、足裏に触れる土の感触も、夢というにはあまりにもリアル過ぎた。
と、そのとき、強い風が横から吹き付けて、思わず顔を上げた。風は瞬く間に通り過ぎて、左手側の、少し離れた所でぽっかりと口を開けている、洞窟の中へと流れ込んで行った。
こんな所に、洞窟なんてあっただろうかと訝しがっていると、ふいに背後から、獣の唸り声が聞こえてきた。あわてて振り返ると、薄暗がりの向うに、金色に光る点がいくつも浮かんでいた。立ち上がって後退りすると、今度はその背を向けた方からも唸り声が聞こえてきた。
野犬だ、とっさにそう思った。月の光でできた柱の中に姿を現したのは、やはり、見るからに凶暴そうな野良犬たちの群だった。
身体の形も大きさも、毛の生え方も、みんなまちまちだったけれど、汚れてごわごわになった毛皮や、がりがりに痩せ細った身体、牙を剥き出しにした口元から滴をつくってしたたり落ちる涎が、彼らを一様なものに見せていた。
ただの野犬じゃない、狂犬だ、そう思ったとたん、思わず洞窟の方へと駆け出していた。忽ち犬たちも吠え立てながら後を追って来た。無我夢中で洞窟の入り口まで来て、そのまま洞窟の中へと逃げ込んだ。
入り口の辺りで犬たちが立ち止まり、やたらめったら吠え立てるのには構わず、奥へ奥へと入って行った。一頻り吠えた後の、犬たちの唸り声の中に混じる恨めしげな響きに、初音は気付かなかった。
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