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どうしてこうなったのか。
息を切らして走りながら、香子の頭によぎる考えは、後ろから迫りくる人波の呻きにかき消される。
ビルに挟まれた大通りを、土色の皮膚と腐敗臭、嗚咽のような叫び声が埋め尽くしている。
彼らは人としての意志なく、飽くなき食欲と破壊衝動のままに生命を追い回す。
研究所で実験漬けの香子の脚は、既に地面を蹴る力弱く、今にも止まりそうだった。
こんなことに、
ならないように、
してきたはずなのに、
私の、やってきたことは、
意味もなく、ここで……。
走り続けた酸欠が判断力を奪い、香子は一歩ずつ、ゆっくりと、その身を死へ委ねようとしていた。
ーー彼女の耳をつんざく轟音。
ビルに嵌め込まれたガラスは痺れるように揺れ、道端の小石はノミのように跳ねた。
香子と腐乱者たちは音源に目をやった。
ビルの間から飛び出したのは鮮血じみたオートバイ。機械仕掛けの獣は、重低音で唸りながら香子へ向かってきた。
オートバイから伸びた腕が香子の腰を乱暴に掴み、彼女を攫って腐乱者たちから猛進して離れて行った。
彼らは過ぎ去った爆音に対抗するかのように絶叫を上げ、足を引きずりながら行進を続けた。
照葉樹林の生い茂る山の麓にそびえる鉄筋コンクリートの無骨な建物の前に、血色のオートバイが停まっている。
香子は突然の加速度と衝撃に目を回して、胃の内容物が逆流してくるのを感じていた。建物から離れて木の傍でえづいていると、ヘルメットを外したライダーが香子に話かけてきた。
「おい……そんなところに吐いたら奴らが嗅ぎつけてくるだろ」
香子はそのライダーに見覚えがなかった。全くの初対面に粗野な言葉と、さっきの乱暴な乗せ方をするような性格、つまりそれこそ現状に必要な資質ということだろう。
「一応確認だけど、あんたはゾンビ研究者の一ノ瀬さんで間違いないな?」
「ゾンビ研究……?ふざけないで!私がやってたのはーー」
「本人で間違いないならそれでいい」
彼は手で香子の言葉を遮ると、踵を返しドアを開けた。
「トイレは使えるから吐くなら中で頼むぜ」
水を流し込むと落ち着いたような錯覚を得た。香子は目の前のパソコンや実験器具を見て、景色が見慣れた研究所に似ていることも精神に影響していると考えた。
隣でライダーこと真也が煙草を灰皿に押し付ける。
「もう分かってると思うけど、さっそく始めてもらうぜ」
「いきなり連れて来られて分かるわけないでしょ!なんなの!?」
「賢い博士にしては物分りが悪いな。あのゾンビ共をどうにかする手段を見つける以外に、あんたの仕事があるのか?」
「ゾンビゾンビってあれはそもそも病原体の異常ーー」
「俺に説明してどうするんだよ。あんたたら研究者の責任なんだろ?」
香子は押し黙る。
そう、問題発生から、いや、それ以前からリスクの全てを網羅して、いかなるエラーにも対処できるようにしていたはずだった。
それなのにこんな事態になったのは、最高責任者の自分のせいだ。
目の前で同僚が無惨に死んでいく様を、ただ見ていることしかできなくて……。
「おい、ぼーっとしてんじゃねえよ。機材は揃ってるって言われてるんだ。早く始めてくれ。俺まであんなゾンビになりたくねえからよ」
真也は苛立った様子でまた煙草に火を点ける。
「もう手遅れよ。こんなことにならないようにしてたのに、もうなってしまった。今からできることなんて……」
真也は香子に詰め寄る。
頬を掴み、彼女の顔を無理矢理上に向ける。
香子は虚を突かれ、真也の顔をまっすぐ見た。
「お前……いい加減にしろよ。もう起きちまったんだよ!だったらウジウジしてねえでこれからどうするか考えろ!俺は目の前でダチが死んで、とにかく逃げた!そんで頼りになる奴に連絡して、あんたを助けろって言われたんだ!」
真也は香子を突き放して、後ろを向き灰を落とした。
「後悔しねえようにするには、とにかく考えてやっていくしかねえんだろ」
彼はそのまま部屋を出ていった。
ファンの音と排熱が部屋に充満している。
同僚たちの最期の顔を鮮明に覚えている。
助けを求める悲痛の表情。
ぞっとする、
期待に応えなければ、
責任をとって、
報いる為に。
ヘアゴムで髪を縛る。パソコンには既知の情報が並んでいる。
どうしてこうなったか、ではない、これからどうするか。
考えろ。
まずは病原体の鎮静化か。
後悔しないように、今度こそ、断つ。
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