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目の前で私の作った料理を口に運ぶ端正な顔を眺めながら、私は戸惑いを隠せなかった。
遼君が、付き合って初めて平日に私と一緒に食事を取っている。
彼は忙しい。平日の帰りは日付をまたぐことも多く、無理やり早帰りしたところで携帯電話という文明の利器にどこまでも追い回される。仕事帰りに待ち合わせてのデートは早々に消滅した。
休日ですら取引先からの電話やメールがたくさん来て、どこにも行けずに家で過ごすということも多かった。
だから少しでも一緒にいられるようにと半年前から同棲が始まったのだけど、結局二人でいる時間はそれほど変わっていない気もする。
そういう現実にガッカリすることも多かったけど、遼君に対して不満に思ったことなど一度もない。
だって、彼の仕事は本当に大変なのだ。私は一時期彼と一緒に働いていたから知っている。
日本が誇るトップクラスの企業の営業のホープ。同期よりもいち早く課長にまで出世して、その分責任も仕事量も増えた。本当に大変だろうと思う。
でも、彼はいつも目の輝きを失わず、楽しそうに生き生きと働いていた。
心から仕事が好きなんだろうと思った。
元々カッコいい彼をチラチラ目で追ってしまうことはあったけれど、そんな仕事で輝く彼の姿に、私は一気に心を奪われた。
遼君は、これまでの人生で女性には苦労をしてこなかったようだ。
ううん、人生そのものにもそれほど苦戦したことはなかったんだと思う。
望めば何でも手に入っただろうし、惜しみなく与えられてきたであろうことは彼を近くで見ていればすぐに分かった。
元々能力が高いからさらりと何でもやってのけてしまうし、何かにつまづいても、人望もあったから自然と彼の周りには人が集まり、みんなが彼を自発的に助けに行く。私だって会社員時代はその一人だった。
遼君は、定時を過ぎたらどんなに事務作業が溜まっていても部下にそれをさせることはしなかった。仕事を依頼していいのは定時までで、それを過ぎたらどんなに忙しくても自分で片づけるべきだというのが彼のポリシーなのだ。
彼の、そういう驕らないところがすごく好きだ。
そんな華やかなで誠実な遼君とは対照的に、私は子供の頃から地味で目立たない存在だった。
顔のパーツも全てが小ぶりで印象に残らなくて、母は、「あなたは将来容姿で苦労するだろうから手に職をつけるのよ」なんて私によく言い聞かせていた。
将来容姿で苦労する。
そんな呪いのような言葉をお守り代わりに持たされていた私は、自分はその程度の人間なんだといつしか諦めてしまうようになった。
だから大した学歴もなく、派遣社員として色んな会社を転々としていた。母の言葉のせいで母の願いとは逆方向に向かってしまったのは皮肉なことだと思う。
恋人と呼べる人もいたことはあるけれど、地味な私に飽きて浮気に走るのが定番のオチだった。そのうち、恋愛にも希望が見いだせなくなって、毎日ちょっとしたコンビニスイーツをおやつの時間に食べることだけが私のささやかな楽しみになった。
絵に描いたような平凡でつまらない人生。
だから、遼君をステキだと思ってはいたものの、まさか自分が告白をするなんて思ってもいなかったのだ。
でも、私は実際遼君に思いを打ち明け、今こうして向かい合って食事を取っている。
ウソみたいな話だけど、遼君が私のことを気にしているのはすぐに分かった。
容姿で見劣りする分、小さい頃から人の気持ちを敏感に察知して先回りの行動をするのが私の処世術だったから。
最初は勘違いだと思ったしそんな風に思った自分を恥じたけど、言葉を交わすときに見せる表情や私に向けられる視線が、私の直感を肯定していた。
だから、一世一代の勇気をもって遼君に告白したのだ。
遼君はちょっとズルい。
彼はなかなか気持ちを口に出して伝えることができないから、思わせぶりな態度を取って相手からアクションを取らせるように仕向けるのが上手い。そして、自分は少し驚いた顔でYesを言うだけの立場を演じるのだ。もちろん、彼からしたらそれは無意識の行動だろう。それに、実際そうしなかったら私達が付き合うことはなかったと思うから、結果的にこれで良かったのだと思う。私は幸せだ。
唯一彼の欠点なのは彼のそういうとこほだけど、彼が私を大事にしてくれるのは分かるから、私もここまで彼と付き合ってこれた。
ほとんどすれ違いの生活だけど、彼の帰りを待ってゆっくりと食事を作る毎日も悪くなかったし、どんなに冷めてても美味しかったと言ってくれる彼のためにメニューを考える日々は幸せだった。
そろそろ付き合って2年になるし、一緒に暮らしているからもしかして結婚なんてこともあるのかと待ってみたけれど、やっぱり彼は何も言わない。
このままだと、プロポーズですら私からになってしまうのだろうか?
まぁでも、私と遼君は、彼がなかなか口にできない気持ちを私が代弁して言ってあげる、そんな関係性でようやく成り立っているのかもしれない。
そう、それで今日の記念日。
まさか遼君が覚えているとは思わなかった。
もしかしたら、本当に今日プロポーズがあるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて彼が食事をするのを眺めてみたけれど、やはりそれは私の過剰な期待だったようだ。
心の中でため息をつく。
私は時計をチラリと見る。そろそろ時間だ。
私は最近ジムに通い始めた。
大した理由はない。これといった趣味もない私は、毎日遼君が帰ってくるまで暇を持て余していたから、何か習い事でもしようと思ったのだ。
最初はお料理教室を考えていたけれど、人と関わるのも面倒くさくて、一人の世界に没頭できるジムに決めた。運動不足だったし。
彼とはそこで出会った。ジムのインストラクターだ。
入会してみたはいいものの、マシンの使い方すらろくに分からない私に優しく声をかけてくれたのが始まりだった。
彼は褒め上手だった。
会えば必ず声をかけてくれるし、私が少しずつトレーニングの回数や負荷を増やせた時には手を叩いてすごいと言ってくれる。
私にとって、それは束の間の潤いの時間だった。
決して遼君からの愛情を感じていないわけじゃないけれど、彼は、遼君とは全く違うものを私にくれる。
そう、与えてくれるのだ。
遼君と私の関係は、いつも私から愛情を与えることで成り立っている。遼君が私を想う気持ちもちゃんと伝わるけれど、それは遼君から漏れ出ているものを私が掬い取って拾っているだけのこと。
ダメと分かっていながら、彼とは一度食事をした。
もちろん、それ以外にやましいことはしていない。
偶然街中で遭遇し、お互いジムでしか会わない間柄だったから何となく盛り上がって流れでそうなったのだ。
お互いの趣味の話とか、幼少期の話とか、そんな他愛もないことを2時間ほど話してとても充実した時間を過ごした。――遼君のことは話さなかった。
やましいことはしていないと言いつつ、これは既に遼君への裏切りだということも分かっている。
そして、今日私は再び遼君を裏切ろうとしている。
今日はこれからジムへ行くけど、トレーニングをしに行くわけじゃない。
彼と食事の約束をしているのだ。
そして、私はある種の予感と確信を抱いている。
今日、私は彼に告白される。
遼君の時と同じように、彼が私に好意を寄せてくれていることは薄々気付いている。そして、彼に惹かれている自分も自覚している。
そんな場へ、私はのこのこ出かけようとしているのだ。
でも、遼君への愛情も変わらずある。
彼が目の前で食事を取っている間、罪悪感に苛まれていた。
だから。私は密かに最後に賭けていたのだ。
もしも遼君が今日プロポーズをしてくれたなら、出かけるのはやめよう。このまま遼君だけを見続けることを誓おうと。
そして、私は負けた。
遼君、ごめんなさい。遼君は何も悪くないけれど、私はもっと愛を与えられたいの。もっと誰かに必要とされている感覚が欲しい。
だからせめて、遼君に対して不誠実なことをする前に、ちゃんと別れを切り出したい。
でも、できない。美味しそうに私が作ったご飯を食べているあなたに、別れを告げる勇気なんて出ない。
いっそ、遼君から振ってくれないだろうか。地味だしつまらない女だった、と。俺と一生一緒にいる価値なんかない、と。
そうしたら私は、黙って俯いてうなづくだけで済むのだ。
――あぁ、そうか。遼君もいつもこんな気持ちだったのか。
「何時に出るの?」
遼君は全く疑いのない目で私を見る。
「もう用意はしてあるから、あと2、3分したら出ようかな。遼君はゆっくりご飯食べてて。せっかく早く帰ってきてくれたんだから、お仕事はしないでゆっくりしてよね」
後ろめたい私は、取ってつけたように遼君を気遣う言葉を口にする。
時計の秒針が頭の中で時間を刻む。
ダメだ、あの告白の時のような一世一代の勇気を出すには、あと少しだけ時間が足りない。
彼との約束に遅れたくない私は、ぎこちない動きで椅子から立ち上がる。
あと5分でいい。あと5分あればこの思いを伝えられるのに。
「じゃあ、そろそろ行こうかな」
びっくりするほどカスカスの声で遼君に告げる。
タイムオーバーだ。
ごめんなさい、遼君。
あなたを傷つけた罰は必ず受ける。それでも私は止められないの。
微笑みながら手を振る遼君を視界の片隅に、私は私に想いを寄せる男の元へ急ぐのだった。
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