33人が本棚に入れています
本棚に追加
「一体どうしたの? 遼君がこんなに早く帰ってくるなんて珍しいよね? 」
向かいで味噌汁をすする由佳が探るような上目遣いでこちらを見る。
勘繰るのも無理はない。
俺は由佳と付き合って2年間、ほとんど平日の19時に家にいたことはなかった。
「えっ……、いやそりゃ俺だって、いつも好き好んで残業してるわけじゃないし、それに今日は俺らが付き合い始めた日だろ?」
「……覚えてたんだ?」
由佳は目を大きく見開く。
失礼だな。そんなに驚くか?
「あぁ、覚えてるよ。いつも忙しくて構ってやれないから、今日くらいはと思って仕事放って帰ってきたんだ」
何だかいかにも裏で浮気をしてそうなヤツの言い訳に聞こえるから弁明するが、俺の仕事が忙しいのは本当だ。
俺は誰もが知る総合商社の営業課長として、文字通り寝る間もなく仕事をしている。
有給はおろか、定時帰りをしたことだって入社して10年間で一度もない。
由佳とのデートはほとんど土日のみ、それだって仕事で潰れることが多かった。それがあまりに忍びなかったから同棲することを俺から持ちかけたんだ。
「そうなの? 無理しなくても良かったのに。今さら気を使わなくても、もう慣れっこだよ?」
由佳は、俺の好きな目尻の下がった優しい笑顔で微笑む。
俺が今日早く帰ってきたのは、ただ今日が俺達の2周年記念日だからではない。
意識を足元に置いてある鞄に移す。
この中には指輪が入っている。今日買ってきた。
本当は定時帰りどころか、入社して初めての半休まで使った。同僚達は皆驚いていた。
俺だって驚いている。
でも、それだけ由佳という女は俺にとってかけがえのない存在だった。
正直言って、まさか彼女のことをここまで好きになるとは思っていなかった。
由佳は、1年前まで俺の部署にいた派遣社員だった。言ってしまえば地味で特別目立つタイプの女ではない。
対して俺は、父親譲りの長身で昔から勉強もスポーツもそれなりにでき、かつ見た目もまぁまぁ良かった。
だから学生時代からよくモテたし、これまで自分から告白をしたことがない。何となく可愛いなと思う相手は全て向こうから俺にアプローチをしてきたし、相手候補はひっきりなしにいた。そんな入れ食い状態だったから、恋愛にはそれほど積極的になれなかった。
由佳の場合も、告白は彼女からだった。
これまで男友達もほとんどいなかったらしく、俺に告白するときも顔を真っ赤にしながら決死の覚悟といった様子を見せていた由佳。
由佳の告白は、俺の心を完全に打ちのめした。
今だから正直に言おう。俺は、多分由佳が俺を好きになるずっと前から由佳に夢中だった。
ひたむきな仕事ぶりに細やかな気配り、以前にいた派遣社員のほとんどが恋人候補を探す目的のためにうちに入ってきた節があったが、由佳はひたすら仕事に一生懸命だった。
地味だが素肌が白くてキレイで、ふだん甘いものを食べた時に見せるとろけるような笑顔にたまらなく心を奪われた。
気づけば、毎日由佳を目で追っていた。
間違いなく彼女のことを好きになっていた。
だが、俺はどうしても彼女に告白することができなかった。
くだらない話だ。これまで、いつも恋愛は相手から始まっていたから、自分の気持ちを打ち明けるというそれだけのことが、俺には商談を成立させるよりも難しかった。くだらない俺のプライドだ。
ただ、幸いなことに由佳も俺のことは憎からず想ってくれていた。
距離を縮めていくうちに、ふるふると震えながら彼女の方から愛を打ち明けてくれて今に至る。
天にも昇る気持ちだった。
それなのに俺は、彼女を手に入れた安心感から、付き合ってからもずいぶん由佳に寂しい思いをさせた。
デートをキャンセルすることも多かったし、仕事にかまけて年々一緒に過ごす時間が少なくなっている自覚もあった。その罪滅ぼしのために同棲を提案したものの、深夜に帰宅してダイニングテーブルに食事が置かれているのを見ると、彼女を家政婦扱いしているように思われているかもしれないという後悔に苛まれたこともある。
もちろん、由佳は付き合ってからどんな時も優しく微笑んで許してくれる。
だから。もう金輪際由佳にはこんな思いはさせない。
そう思って今日は、自分からプロポーズをしようと決心したんだ。
しかし、失敗した。
どうせだったら銀座のイタリアンでも予約すればよかったのに、家で普通に食事を取るというシチュエーションでプロポーズなんて俺にはできない。なんせ告白すらできなかった男だ。
「遼君、あのね、私20時からジムに行く予定があって……」
由佳が言いだしにくそうに切り出した。
「えっジム? 由佳、ジムになんて行ってたのか?」
「うん、平日の夜だけ。遼君が夜いないから私も暇を持て余しちゃって。夜でもやっている習い事はないかなぁと思って通ってたの。ごめんなさい、言ってなくて。まさか今日遼君が早く帰ってきてくれるなんて思ってなくて……」
「いや、俺の帰りが遅いからだもんな。どう? 楽しいの?」
「うん。運動は嫌いなんだけど、体力のない私にもできるメニューを組んでもらって、無理せずダイエットできるの。2キロ痩せたら通うの楽しくなった」
由佳が、あの甘いものを食べた時のほっこりとした幸せそうな表情で微笑む。
俺の好きな由佳の笑顔。
「あんまり痩せすぎるなよ。由佳の二の腕のぷにぷにが減るのは大問題だ」
「あっひどい! そこを減らしたくて一番頑張ってるんだからね。もうちょっと痩せないと、遼君に釣り合う女性にならないもんね」
そんなことない。俺は今の由佳のままで全然いい。というか、ふわふわした体形の由佳に惚れたんだから、痩せようとしたりするなよ。
そんな言葉ですら、俺は口に出して言えなかった。
「何時に出るの?」
「もう用意はしてあるから、あと2、3分したら出ようかな。遼君はゆっくりご飯食べてて。せっかく早く帰ってきてくれたんだから、お仕事はしないでゆっくりしてよね」
由佳が気づかわし気に言う。
俺が不在がちなことで寂しい思いをさせ、それでもなお俺を労わる由佳のことを心底いじらしく思った。
やっぱり、俺は一生由佳と一緒にいたい。
でも、あと少しだけ。
「あぁ。サンキュ。……由佳」
「ん? なぁに?」
ダメだ。プロポーズをするにはあと少しだけ心の準備が足りない。
「じゃあ、そろそろ行こうかな」
由佳が立ち上がる。
半袖のTシャツから覗く由佳の白い二の腕が目に入る。まだ柔らかさは失われてはいなかったが、確かに以前より引き締まって美しいシルエットになってる気がした。
由佳。あと5分。あと5分俺にくれ。そうしたら。
「それじゃあ遼君、行ってきます」
手を振る由佳が遠ざかる。
俺はため息をつき、足元の鞄の中から白いリボンのかかった正方形の箱を取り出す。
「アホか。結局タイミング逃して言えずじまいかよ」
あと5分。あと5分あればこの思いを伝えられたのに。
「お前の出番は由佳が帰ってくるまでおあずけだな」
俺はその箱をそっと鞄の中へ戻した。
最初のコメントを投稿しよう!