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「あの、落としましたよ」 それは休日の昼に、コンビニへ行った帰り道だった。 振り向くとそこには1人の男が立っている。手には私の小銭入れを持って。 「あ、すみません。ありがとうございます」 私は「落し物をした」という恥ずかしさから相手の顔を見ることが出来ない。小銭入れだけ受け取って、すぐにでもその場を立ち去りたかった。 「返して欲しいですか?」 男は何を考えているのか全く分からない声色でそう言った。 返して欲しいに決まっている。全財産が入っている訳では無いけれど、その小銭入れには私が毎日頑張って働いて得たお金が入っているのだから。 「お手数をお掛けしました。返してください」 「暑いですね、今日」 小銭入れを受け取ろうと伸ばした右手に構うことなく、男は空を見上げてそう言った。 ───え、返す気ない? 「あの…それ、返していただけないでしょうか」 男の行動の意図が掴めず恐怖心が大きくなった私の声は、少し震えていたように思う。 男にもそう聞こえたのだろう、自分は無害だと言わんばかりの優しい目でこう言った。 「質問に答えていただけたら返します」 落し物を拾ってもらったらなにか質問に答えなければいけないなんて人生で初めて聞いた。 道にでも迷っているんだろうか。この地域の住人ではないのだろうか。 見ない顔だ──と言いたいが、私は自分の住んでいる地域の住人の顔を全て知っているほど外出もしなければ、そういった「地域ぐるみ」「ご近所ぐるみ」な付き合いもしていない。 地元から遠く離れた土地で、ひとりで暮らすには少し高めの家賃を支払って、ひとりで暮らしている寂しいヤツなのだから。 「質問、答えていただけますか?」 「あ、はい、何でしょうか」 小銭入れを拾ってもらった恩もある。なにか聞きたいことがあるのであれば、答えられる範囲で答えて納得してもらい、小銭入れを受け取ってさっさと帰りたい。 ───アイスが溶ける前に。 思わず空を見上げてしまうほどいい天気ではあるけれど、今日もいささか暑いのだから。 男は私を真っ直ぐ見つめる。切れ長で涼し気な目元だ。 地毛だろうか、これでもかと言うほど真っ黒な髪を、少し強い夏の風がさらさらと揺らした。 「死にたいんですか?」 瞬間、唖然とした。 確かに私は1日に最低3回は「死にたい」と呟くほどではあるけれど、面識が1度もなくてただ落し物を拾ってもらっただけの人間に「死にたいんですか?」と聞かれて「はい、死にたいです」と答えられるほど肝は()わっていない。 今日この瞬間までうっかり生きてしまっているけれど、今ここで「そうなんです、死にたいんです」と答えたらもしかして「あなたのお望み通りにしてあげましょう」なんて言って、この場で殺されてしまうことも考えられる。 それは避けたい。見ず知らずの他人に殺されるのは──いや、いいんだけれどタイミングは今ではない。 だって私の左手からぶら下がっているビニール袋の中では、家でゆっくり食べようと買った期間限定のアイスクリームが「早く食べてくれ」と言わんばかりに汗をかいて待っている。 殺されなかったとしてもなにか怪しい宗教の勧誘という可能性も無い訳ではない。 怪しすぎる。怖い。恐怖だ。 「いえ、死にたくないです」 私は、男が手に持っている自分の小銭入れをまるでひったくり犯のように奪い返した。 「質問には答えました。拾っていただいてありがとうございました。さよなら」 そう言って、この馬鹿みたいに暑く照らす太陽の下を走って逃げた。 揺れるビニール袋の中ではアイスクリームがカサカサと音を立てて笑っているようだった。
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