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いつの日か
佳奈の閉じられた瞼がぴくぴくと動いた。
僕は佳奈の細い手を握る。まるで、骨のように細い指は少し動かしただけで、折れそうだ。
佳奈の薄い紅の唇に僕の唇を合わせる。冷たい唇は「死」を感じさせる。僕は生きていて、佳奈は半分死んでいるようだった。もし代われるなら僕が死んだ方がましだった。
あなたの夢は? と佳奈が聞いたが、僕は答えなかった。なんで答えないの? だって恥ずかしいから。いいじゃない。夢は? 僕は渋々カメラマンだと言った。でも、何回も賞に投稿しているのに賞はとれなかった。仕事をしながら、僕は何回も何千回もシャッターを切っていた。いつの日か、あなたはプロになれるわよ。と佳奈は微笑みながら言った。僕は、「なんの根拠があるの?」と言った。「女の直感よ」と笑った。佳奈は看護師を続け、僕の貧しい生活を支えてくれていた。
佳奈は百万人に一人という奇病に侵された。人の心臓が石化して固まっていくという病だ。突然、動くと佳奈は息切れをしだした。「変ね」と言って、口から吐息を漏らす。「どうしたの?」と僕が言うと、佳奈は「ん? 何故かしんどくて。仕事で疲れているのかしら」
と微笑みながら言った。僕は今でも覚えている。その悲し気な顔はこの瞬間でも僕の瞼の裏に映っている。
佳奈は次第に、体を自由に動かせなくなり、不整脈を起こした。もう仕事もできなくなるくらい弱った佳奈と僕は病院に行った。血液検査やCTスキャンをされて、佳奈は本当の病気を知った。僕は佳奈の隣で医師の話を聞いていた。「この病気の原因は今でもわかっていません。心臓が石になっていく病気です。体の内部の病気ですし、今の医学では、手術でも治すことはできません。申し訳ありません」と医師は本当に申し訳なさそうに言った。どくっと僕の心臓の音を聞いたようだった。佳奈の横顔を見ると、白く、診察室のブラインド越しから漏れる太陽の光が佳奈の顔に影を落としていた。僕は何も言えなかった。
佳奈の顔は青ざめている。僕は佳奈の心臓に手をやって、心臓の音を確かめる。血液は体中に回っているのだろう。音は確かだ。でも、時折、何秒か止まっている時間がある。その間、僕は佳奈が死んでしまったんじゃないかと不安に駆られ、佳奈を起こそうとする。佳奈はうっすら目を開けて、「信二。どうしたの?」と言う。僕は、「なんでもないよ」と誤魔化す。
佳奈は笑って、「また、止まっていたのね。ポンコツの心臓」と言った。僕は、笑っていいのか、でも、時折、目から涙が零れそうになる。「だめよ。あなたが泣いたら。あなたより私が先に泣くの」佳奈は時計を見て「あと5分」と呟く。佳奈は腕を動かすが、腕には点滴の針が刺さっている。もう食べられなくなった佳奈は、もう食欲が湧いてこないようだった。佳奈は目を閉じて、「あと5分」ともう一回、言った。
僕はパリの街を歩いている。エッフェル塔が微かに見えるカフェで、「ボンジュール」という言葉を発する。僕は左手の橈骨動脈に手をあて、脈を確かめる。時計の秒針より微かに早く、正確に脈打っていた。指先でその確かな音を聞く。「あと、3分」僕は、パリのカフェで時計を確かめる。僕は左手の薬指を見る。指輪はない。
僕は佳奈を写真に収めようと、カメラを佳奈に向ける。佳奈は「こんな格好撮らないでよ」と、嫌そうに言う。僕はシャッターを切る。カシャっという音がして、デジタルカメラは佳奈の姿を収める。「もう」と言って、佳奈はベッドでなんともいえない顔をする。
僕はもう1枚写真を撮った。
20歳のころ、カメラに出会った。家電量販店で売られていたCANONのkiss3が僕の目の前にあって、写真なんかに興味がなかった僕は、なんの気なしにそのカメラを手にとる。初めてのカメラは僕の手の中に馴染むように収まった。僕はファインダー越しに世界を眺めてみた。小さく切り取られた世界は無限に見えた。
佳奈の心臓はやはり悪くなっていった。石化した心臓は血液を送る力を失っている。「佳奈」と言って、僕は佳奈の上半身を起こし、佳奈の顔を僕の胸にもたせかける。だらりと落とした腕を僕は持ち上げ、握る。「ねえ。佳奈」と言うと、佳奈の唇は微かに動く。
「好きよ」
佳奈は言う。僕だって。そうだよ。僕は言う。ねえ。結婚式しないか。と僕が言うと、佳奈は驚き、その後、微笑む。「あと、2分」僕が言うと、そうね、と佳奈は頷く。
カフェの椅子に座りながら、街を歩くムッシュやマドモアゼルにカメラを向け、僕は、シャッターを切る。僕はカメラの今撮った写真をウインドウで確かめる。悪くない写真だ。僕は、テーブルの上のカフェオレに手を伸ばす。カメラはCANONのR5だった。悪くないと僕は独り言を発する。
「あと1分」僕と、佳奈は手を取りあう。冷たい手。細い指。僕は泣いていた。佳奈は、ねえ、なぜ泣くの? 私は悲しくなんかない。だって、いつでもあなたのそばにいられるから。私は、あなたの傍にずっといる。いつでも思い出してね。浮気はゆるさないから。と佳奈は怒った振りをする。
そこで、僕は病室の窓のブラインドを開ける。真夏の太陽が燦燦と輝いている。もう佳奈に泣いている姿を見せたくなくて、僕はそっと、ベッドに腰掛ける。するとさっきまで白かった太陽が黒く欠けていく。昨日の夜、皆既日食の特集がニュース番組で組まれていた。30年に一度の皆既日食が日本各地で見られます、とアナウンサーが言っていた。太陽が欠けていく。僕の輪郭も欠けていく。僕は佳奈の方を振り返る。佳奈は微笑んでいた。ねえ、30年に一度よ。次の日食まで私達、生きているわよね。と冗談を言う。うん。と僕は言う。
太陽と月が一直線上に並ぶ。太陽が君で、僕が月だ。太陽が輝きだす。ダイヤモンドリングだった。きらきらと輝く太陽の光は僕達の結婚指輪だった。私と結婚してくれてありがとう。と佳奈は言う。僕こそ。と言って、誓いのキスを佳奈にする。佳奈の目から涙が零れる。佳奈の息は次第に小さくなっていき、そして、消えた。僕はもう泣かないと決めたのに、涙が出てきた。泣き虫ね。と佳奈の声が僕の耳傍で聞こえた気がした。
僕はプロのカメラマンになっていた。あと1分。パリの白い太陽が欠けていく。皆既日食がはじまっていた。太陽がダイヤモンドリングを発する。
佳奈は僕には内緒で、CANONのR5を買っていた。佳奈が亡くなり、代々の墓に佳奈の骨壺を入れて、その後、近親者だけが集まって会を開いた。僕がそこでビールを飲んでいた時に、佳奈の母親がそっと僕にカメラを手渡した。50万円のR5は、僕には高価で、扱えないと思っていた。プロのカメラマンになるには、いいカメラを持ってないとダメと言っておいてと、佳奈が言っていたわ。佳奈の母親は僕に言った。
僕は今、パリにいる。賞も何個か取った。僕の左手の薬指には指輪がない。だって、僕には佳奈の贈ってくれた、太陽のダイヤモンドリングがあるから。ねえ。佳奈。君の言った通り、カメラマンになったよ。でも、君は傍にいない。僕は、時々寂しくなるんだ。ジャケットのポケットから、古びた写真を取り出した。佳奈の最期の写真。そこには、屈託のない佳奈の笑顔があった。浮気はしてないよ、と僕は写真の佳奈に言って、またポケットにそっと入れた。
皆既日食は終わっていた。僕はカフェで会計を済ませると、パリの街を歩きだした。
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