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夏が終わった。
蝉も姿を消して、秋空。朝晩はだいぶ涼しくなりこのまま季節は冬に向かい今年も静かに終りを告げるのだろう。
高校は授業が始まったらしく、亜貴とはご無沙汰で直生は少し時間を持て余していた。店頭にバイト募集の張り紙はしたものの、新たなバイト志望者は現れない。だから今日も一人、直生はレジに立っている。
そんな秋の日のある日のこと、子供連れの夫婦が来店した。子供はまだ小さく、父親らしき男性に抱かれている。二人はしばらく店内を見て回り、どうやら何か探している本があるらしい。
「すみません」
男性が直生に声をかけてきた。子供は不思議そうな顔をしてあたりを見ている。
「はい、探し物ですか」
「古い本なのですが、……嵯峨野詩情の本ってどの辺にあります?」
「嵯峨野詩情は、この辺に」
直生の前で彼は口元をいじった、その癖は何処かで見たことがある。
「あの嵯峨野詩情の善と黒が収録された短編集って置いてありませんか? 結構昔に出版されて……善と黒だけなら映画化されたし、ちょくちょく売っているのを見るんですけど」
「ああ、十年前くらいに発行されていましたね。嵯峨野詩情は最近売れるから……」
嵯峨野詩情、そして直生は間近で彼を見て息を飲む。あの日の『彼』も詩情の小説が好きだったのを思い出した。
「昔、持っていたんだけど失くしてしまって。嵯峨野詩情、好きなんですよ」
そう言ってまた口元をいじる、あの日借りたあの本はいまだに借りっぱなしで返すきっかけがなくて……それでも直生が彼を思い出す時には必ずそこにある。直生が彼を忘れるはずなんてなかった。
「ねえパパー、絵本みたい! えほん!」
子供がぐずりだして、男性は苦笑し子供を隣の女性に渡す。二人は児童書のコーナーへと向かって行った。直生は湧き上がる感情を抑えながら言葉を選ぶ。
「……さ、嵯峨野詩情は初期の短編に味がありますよね。善と黒以外にも良い小説は多くて」
「うん、良作が多い。最近は電子書籍でも見かけるんだけれど、やっぱり昔のように紙の本として読みたくて……ありがとう、また他を探してみます」
「見つかると良いですね、時を経ても面白い本はいっぱいありますから」
男性は黙って微笑んだ。子供と一緒に児童書コーナーをしばらく見たのち、三人で店を後にする。去り際、子供は直生に向かって手を振った。
「元気だったのか……」
一人になった直生はため息とともに目頭が熱くなるのを感じた。確かに結婚も子供もいておかしくない年齢だろう。松井祐之介、彼はまだ東京で暮らしていたのだ。かつて直生を救ってくれた笑顔は今も変わってなんかいなくて。
レジの隣の椅子に腰掛け、うつむいた直生は少し笑った。彼は幸せであるべきだ、あんな優しかった彼のこと。もう会うこともないだろうし、直生もあの街にも戻るつもりはないから。残酷だった時の流れはあの日の二人を引き離して、過去の出来事を思い出に変えて行く。
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