無彩色

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 ***  黒い詰襟の学生服姿の少年が一人の女性から突き飛ばされて縁側から落下した。当時中学三年生の椎橋直生の手のひらには擦り傷が。女性、松井千鶴子(まついちづこ)は持っていたほうきを振り回して、さらに直生に攻撃を加えようとした。そこへ帰宅したばかりで真っ白なシャツにネクタイを外した高校生が止めに入る。彼の名は松井祐之介(まついゆうのすけ)、千鶴子の息子で高校三年生だった。 「おい母さん、直生が何したって言うんだよ! どうせ洗濯物の取り込みに失敗したからとか、そんな理由だろう? 許してやれよ、やりすぎだって」 「祐之介、あなたこそどうしてこんな子かばうの? こんな不器用な出来損ない、引き取ってやった恩も知らずに!」 「親の都合だろう? 直生が悪いわけじゃないんだから、落ち着きなって! 早く、直生、大丈夫だから部屋に戻りなさい」  祐之介のひと言に土埃すら払わずに直生は与えられた部屋に戻った。薄暗く窓もない四畳半、直生の荷物は生活に最低限のものしかない。 「……直生、ちょっといいかな」  騒ぎからしばらくたって、直生の部屋をノックするものがいた。祐之介だ。 「あの……?」 「手のひらは大丈夫か? ごめんな、母さん怒ると手がつけられなくて。直生が気にする必要はないんだよ」 「……」 「食事も食べられなかっただろう? これ、お菓子で悪いけど食べて良いから。あと夜は長くて暇だろうし、この本を貸してあげるよ。趣味に合わなかったら申し訳ないけど」  祐之介は小さなクッキーの箱と一冊の文庫本を直生に差し出した。そっとドアを閉めて直生は箱を開けてお菓子を食べる。文庫本の表紙には、嵯峨野詩情短編集と書いてあった。文学に疎い直生は知らなかったが、どうやらだいぶ昔に書かれたものらしい。その中に収録された短編、善と黒。内容は作者の名前と題名からでは想像できない、古き良き時代を舞台にした恋愛小説だった。  直生がこの家に来てから一年がたった。離婚した両親、押し付け合いの結果親権は父親がとることになったが、父は状況が落ち着くと遠縁であるこの松井家に直生を置いて失踪した。そのせいか直生は未だこの家でうまく居場所が作れないでいる。優しいのは祐之介だけだった。  季節が秋が冬に変わる頃、主人が留守の食卓では祐之介の進学の話になった。勉強も出来て優秀な祐之介は本が好きで大学は文学部を目指している。 「祐之介なら東大も夢じゃないわよ、この間の試験も首席だったんでしょう?」  浮かれる千鶴子に祐之介は笑う。内心直生は気が気ではなかった。進学先によっては祐之介はこの家を出て行くのだろう。そうしたら今度こそ、直生に孤独が訪れる。 「東大は流石に無理だけどね、うん……東京の方の大学に行きたいと思ってるんだ」  口元をいじりながら彼は言った。ああ、祐之介ならきっと叶うだろう、その言葉で直生の心は絶望する。もうどこにも行く場所なんてなかった。
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