序 ある少女についてⅠ

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序 ある少女についてⅠ

 卸したての喪服を着た少女は、葬儀場に着くや否や棺の蓋を開けた。  検死があったせいで、エンバーミングには間に合わなかったようだ。裂けた頬に残る修復痕は生々しく、吊り上がった右口端からは歯が見えている。眠る表情は穏やかとは程遠く、苦痛で歪んでいるように見えた。  少女は遺体の顔以外を覆う白い花々を乱暴に押しのけて、死に衣装越しに母の遺体に触れた。右半身が凹んでいた。 「何してるんだ! 遅れてきたと思ったらこれか!」  少女の父が、腕を掴んだ。 「くそ。消毒液はあるか? 早く持ってこい!」  少女の父は周囲の人間に怒鳴った。だから棺はボルトでとめろと言ったんだ、と悪態をつきながら少女の腕を高くひねり上げた。  少女は腕部の痛みを感じながら、偉そうに命令する父を疎ましく思った。  遺族に故人との別れを惜しむ暇が与えられなくなってから久しい。故人の遺体に触れるなどもってのほかだった。遺体はとにかく早く荼毘に付さないとならない。でないと死体が起きてしまう。今や常識だった。 「構わない。やってくれ」  少女の父が火葬場の担当者に言った。防護服に身を包んだ担当者は棺を閉じると、すぐに炉内へ棺を入れ、開閉ボタンを操作した。二重の鉄扉が閉まると、低い稼働音が聞こえた。  少女のポーチから振動音。少女はひねり上げられていない方の手で器用にスマートフォンをとった。 『次の撮影なんだけどさ、悪いけど一時間早く向かってくれない? ちょっと用事入りそうなんだよね』  少女は、わかりましたと言うと通話を終える。 「お前。母さんが死んだんだぞ。こんな時まで撮影か」  少女は父を見上げた。小さな広告会社に過ぎなかった社を一代で上場させたエネルギーがにじみ出ているかのような雰囲気には、家庭を全く顧みなかった反省は含まれていないらしかった。  少女は父を睨みつけると、関係ないでしょ、と不機嫌を隠さず言い放ち、ヒールの踵で革靴を思い切り踏んだ。父が悶絶する隙をつき、束縛を振り払い、駆けだす。  制止する声を聞かず、走る。走りにくいのでヒールを捨てた。そのまま葬儀場の前に待たせてあるタクシーに乗り込む。少女は運転手に行き先を告げる急ぎ目で向かうように頼んだ。  後、スマートフォンを取り出す。夜の撮影現場の担当者に、前の現場が押したので遅れるかもしれない、とメッセージを送った。  そんな調子で関係各所への連絡を一通り終えたのち、少女は仕事を辞めようと思った。母の死に目にすらゆっくり立ち会えなかったからではなかった。父と会い、自分も多忙を極めているうちに似てしまうのだろうかと考えたからだ。  これからはあまり表に立たないようにしたいと思った。ある程度を稼げるだけ仕事は減らして、ゆっくり何か、別のことをやりたいと思った。表に立たず、けれど挑戦のし甲斐があるものが良い。  何かないだろうか、と少女はぼんやり考えながら、流れる景色を見つめていた。  タクシーが高速道路に乗ってしばらくたったころ、少女は『文学大賞開催』の文字が躍る看板を見た。文芸で有名な出版社のものだった。少女は何となく面白そうだと思い、忘れないように写真を撮ろうと、窓の外にスマートフォンを向けた。  右手の親指に血が付いていた。きっと母のものだろう。  少女はその血を舐めとった。  血液から感染するとは言われているけれど、したところで別に死にはしないのだ。  死んだあとに、続きがあるようになるだけなのだ。
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