一章 別の少女についてⅠ

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一章 別の少女についてⅠ

 一   人類が小説を書く能力を手に入れてから今日に至るまでの間で、これがもっとも成功した物語であり、この作者が自分だとは信じられなかったのが二週間前の夜のこと。  これで自分は作家志望だと喧伝するのは、胸を出してキャンパスを歩き回るよりも恥ずかくてたまらない、ということに気づいてしまったのが先週のこと。  ゼミ合宿の課題提出の締め切りまで残り三時間。時刻は午前三時。何気なく窓のほうを見る。疲れた顔が映っている。見上げる。夜空に浮かぶ月は少し欠けていた。窓を開ける。熱帯夜なのでむわっと熱気。視界には社会の成功者たちの住むタワーマンションが私を見下ろしていた。四つの頂点、赤い航空障害灯が明滅していた。  夜の中でも特に深いこの時間が好きだ。東京中野の学生マンションといえども、夜は静かなのだ。  無音。この瞬間が最も心地よい。何も聞こえなくなって目をつむると、つまらない夏の夜でもいとおしくてたまらなくなる。いつか死ぬときはこんな夜がいいと思う。この無音に身を任せれば何もかも、どうでもよくなる。いつか意識を手放すときはぜひそうしたいと思った。 「あ」  唐突に思いつく。寝ても覚めても直し続け、締め切り直前になって挙句ダメだと結論付けた課題作。最適な解が見つかった。  夢から目覚めたときの感覚と似ている。寝起きでつるつるの脳では、夢の残り香をシャネルの五番か何かと勘違いするので、夢の内容ママ書けば最高に面白いものが書けるのではないかとよく錯覚するものなのだけど、あの全能感に近い。  本当に面白いのかは証明できない。する必要がない。とにかく書け。午前六時厳守の課題を出してゼミの単位を手に入れるのだ。  ノートパソコンに向かう。コーヒーを飲む。ぬるくて不味い。でも今の私には十分な燃料だった。さっきまでキーボードの上で、終わらない禅問答を続けていた指がそれまでが嘘だったかのような速度で動く。指が痛くなってくる。ずっと動いているからだ。比喩でなく痛い。この痛みが気持ちよかった。中学から五年間ずっと書き続けて初めての感覚だった。  溢れてきて止まらない。脳にビリビリ走る電気に必要な情報はすべて載っていた。0と1でなんでも表現するコンピュータよりも早く文字を紡ぐ。汗が目に入る。クーラーは壊れているから付かないのだけどどうでもいい。体中の水分がぬけて蒸発しようがきっとこの指は止まらない。そして完成する。すかさず頭から読み返す。読み終える。気づけば汗だくで服のまま泳いだみたいにびしょぬれだった。蒸れて気持ち悪い。  新聞配達の原付が走る音が聞こえた。朝だった。窓辺に立って空を見る。終わりかけの夜空を峻烈なまでにまぶしい太陽が侵食している。どのくらいそうしていただろう。星々は消えかけ、月は白く薄くなっていった。振り向いて実家から持ってきた古いローテーブルのほうを見る。イケアで買ったやつだ。その上でうんうん唸っているノートパソコンに映る、目が痛い白色のエディター。ポインターが「了」の文字の下でゆっくり点滅していた。
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