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始まりの春の日
そっと春の日の始まりをなぞる。
擦り切れた黒のコンバースで、地面を一歩ずつ踏みしめながら僕は歩いた。自宅最寄り駅から20分ほど電車に乗り、着いた駅からかれこれ15分くらい歩いて、ようやく見えてきた緩やかな坂の上に建つ創立100年近い高校は、地元では有名な進学校でありながら桜の名所とも呼ばれている。
合格発表を見に来たときはその咲き誇る桜の花に感動もしたが、入学してしばらくすると庭掃除当番にウンザリしたものだ。
3年に進学したこの春。箒を片手に、桜の前に並んで「いぇーい」なんて奇声を発し、嬉しそうに写真を撮る同級生たちを無言で見ていた。羨ましいとか、馬鹿らしいとか、そのどれでもない感覚。散りゆくその姿をなんと表していいのか、僕の言葉のどれをもっても言えなくて、誰にも共感されないだろう焦燥感と躍動感はその写真には映らないのだろうなと、ただぼんやり思った。
「瀬野くん」
突然、後ろから名前を呼ばれて、僕は歩みを止めて咲いてもいない桜を眺めていたことに気がつく。
「瀬野くん、おはよう」
「…おはよう」
振り向くとクラスメイトの三島綾花が立っていた。3年生になって初めて同じクラスになったが、彼女のことは入学当初から知っていた。
というより控えめに言って美人で目立つ彼女のことを、知らない人はいないだろうと思う。僕らが立ち止まった横を通りすがる生徒たちの視線が、完全に三島綾花に集まっている。
そんな彼女に不意に話しかけられ、鼓動が早まった。
「瀬野くん、今日、数学やってきた?」
三島綾花が少し尖らせ気味の口で尋ねる。
「あー、うん、まぁ。自信はないけど」
「そうなんだぁ。アヤはもっと自信ないよ。後でちょっと教えて欲しいな」
自分のことを「アヤ」と呼ぶのはいただけないが、いかんせん可愛い。目を逸らしながら「いいよ」とぶっきらぼうに答えると、三島綾花は笑ってありがとと短く言った。
こんなに可愛い外見でありながら、三島綾花は決してその美しさを鼻にかけることはしなかった。
そして誰に対しても平等に優しく、僕のような、クラスの隅で本当はグラビアアイドルとあれやこれやの妄想で忙しいくせに、そんなこと微塵も興味ありませんって顔で少年ジャンプの話なんかしてるやつにも、こうやって話しかけてくる。
「ところで、今何見てたの?なんかいた?」
「あ、や、卒業式には咲くかなと思って」
「えー?今から夏だよ?まだ気が早いよぉ」
三島綾花は笑った。ふふふと笑った。
僕はその笑顔に目眩を覚え、曖昧に笑い返した。
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