ブロック塀

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ブロック塀

 ゆずくんとお別れをした、あの夏の日のことです……。     こういう時世なので、目下のところ、自宅(母と暮らしています)で仕事をすることが多くなりました。  午前はキッチンのテーブル。午後からは書斎で仕事をしています。私の場合ですが、一日中同じ場所にいるより、変えた方が飽きることなく集中できるのです。  一週間前のことです。  その日もキッチンのテーブルにパソコンを置いて、コーヒーを飲みながら仕事をしていました。  母は朝早くからパートのため、平日の朝において、この時間帯に家にいるのは私一人だけです。  十時ぐらいでしょうか。 「お姉ちゃん!」  窓の外から声が聞こえます。 「ねぇ! お姉ちゃんってば!」    何だろう……  作業途中のデータを保存すると、立ち上がって左手の窓を開けてみました。この窓からは、お隣さんの家を隔てているブロック塀が見えるのですが、その模様のすきまから、目がこちらをのぞいていました。 「あ、ゆずくん!」  その目は、お隣の息子さんのゆずくんでした。  ブロック塀まで1メートルほどの距離なので、表情も見えます。何だか笑っているようでした。 「あれ? 今日は学校じゃないの?」 「ううん、今日まで学校休みなんだ。明日からは学校だけどね。お姉ちゃん暇? 遊ぼうよ」  私の目線ぐらいあるブロック塀の上から、両手を突き上げて、ぶんぶんと振っています。  あら、ゆずくんって、こんなにも身長高かったかしら……  ゆずくんは小学三年生で、身長も小柄な方でした。  「ゆずくん、身長高いのね」 「違うよ、椅子の上に立っているんだよ。椅子から下りると何も見えないよ」  すると、ゆずくん顔が模様のすきまから見えなくなりました。 「椅子に立つと……ほらね!」  再び、ゆずくんの顔がすきまから現れました。 「あ、そういうことね!」  私は納得をしました。  それはさておき、ゆずくんと遊びたい気持ちはありますが、今日中に仕上げなければならない仕事がまだ終わっていません。 「ごめんね、ゆずくん! お姉ちゃん、今日は忙しいの」 「えー、そうなの……」 「また今度遊ぼうね」 「わかったぁ……。じゃあね!」  木でできた椅子の背もたれを、重たそうに抱えながら家に入っていく、ゆずくんの後ろ姿が見えました。    その次の日の朝です。 「マスク、学校でもきちんとするのよ」 「うん。行ってきまーす!」  元気な声がお隣から聞こえてきました。  これからゆずくんは学校に行くのでしょう。  それにしても、こんな夏の暑い気温の中、風邪をひいてもいないのにマスクをして登校するなんて、不憫だなと心から思います。  夕方になりました。  書斎で仕事をしていると、母が部屋の中に入ってきました。 「どうしたの?」  机に向かったまま母に訊きました。 「今、電話があったんだけど、お隣さんのゆずくん、下校途中に交通事故で亡くなったらしいよ」 「えっ」  私は振り返って母の顔を見ました。 「左折するトラックに巻き込まれて……」 「そう……」  何だか、言葉では言い表せない胸騒ぎがしました。    その翌日の朝。  今日もキッチンのテーブルで仕事をしていましたが、昨晩は何だかよく眠れず、眠くて仕方がありません。  あくびを噛み殺して目を覚まそうと、椅子から立ち上がり伸びをしたときです。 「ねェ、オ姉ちゃん……」  えッと思いました。  ゆずくんの声が、窓の外から確かに聞こえました。 「オ姉ちゃん……ねェ、オ姉ちゃん……窓をアケテ……」    いつもの元気な声とは違い、悲しそうな暗い声です。  もしかしたら、ゆずくんは亡くなっていないのかもしれない、ということを考えるようにしましたが、やはり怖くて窓を開ける勇気はありませんでした。    しかし、何度も何度も何度も何度も窓を開けてくれと呼び続けます。    私は、早くどこかへ行ってくれとお願いすることしかできませんでした。 「そッか。オ姉ちゃん、僕ノ声、聞こえないんだネ……」  ぼそっと言う、ゆずくんの声が聞こえました。   もちろん、窓を開けてゆずくんの幽霊姿を見てしまったらという、怖さはありました。しかし、この言葉を聞くと、かわいそうに感じて仕方がありません。  昨日に母が言っていたことが間違っていて、ゆずくんは元気だったという明るい落ちを期待していますが、もしこの世からいなくなってしまったとしたら、最後にもう一度会って、ゆずくんにお別れをしたいと思ったのです。   「ゆずくん! ごめんね! 今、開けるからね!」  私は勢いよく窓を開けました。  が、目先の有様(ありさま)から後悔をしました。    ブロック塀のてっぺんに、上半身裸のゆずくんがいました。  真っ赤な姿で、ゆずくんの顔には所々血が飛び散っています。  へその辺りから下がなくなっていたので、この事故がいかに悲惨だったのか、いやでも想像ができました。    「オ姉ちゃん……アえてよかった……サヨウナラ……」  ゆずくんは、青ざめた私の顔を見てニッコリと笑うと、上半身を後ろへ倒して、音もなく消えました。
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