序章

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 授業が終わると、帰宅の途につく生徒たちで一時校門付近は溢れかえる。  そんな生徒たちに混じって、順也も足早に校門を抜けた。  新入生の中には早速目当ての部活を見学に行く者もいたが、彼は部活動などする気は毛頭ない。そんな暇があったら、一分一秒でも学習に振り向けたいと考えていた。そうしないと、塾に通っている生徒に追いつかれてしまうからだ。  彼は塾に通ったことがない。別に通塾が不可能という訳ではなく、強く希望すれば恐らく通うこともできるのであろうが、彼にはその「強く希望する」ことができない。そうするためには、他人と関わらなければいけないからだ。そんなことをするくらいなら自分一人で他人の十倍学習した方がマシだと考えている。参考書を買う時など必要最低限の事以外では、彼はできるだけ他人と関わりたくないのだ。  そう。彼にとって自分以外の人間は全て「他人」なのである。  いくつかの路線を乗り継ぎ、最後に彼はレトロな雰囲気の路面電車に乗り換えた。  それなりに混んだ車内の入り口付近に立って見るともなく車外の風景を眺めるうち、やがて電車は人の少ない静かな駅に到着し、順也はその駅で降りた。  駅を出て閑静な住宅街の中を十分ほど歩くと、黄色い壁の大きな家が路地の向こうに見えてくる。  ぱっと見た感じは、ごく普通の一軒家である。まだ新しく、落ち着いたトーンの建具で統一されたおしゃれな雰囲気のその家は、近所の家よりかえって大きく立派なくらいで、一見しただけではその家と普通の家との違いは分からない。門の端に小さく掲げられている『グループホーム 成長の家』と言う文字を見ない限りは。  順也はその家の門をくぐると、玄関の扉を開けた。 「ただいま」  口の中で呟くように言うと、靴を脱いで自分の場所にしまう。  台所から、既に帰宅している子ども達の明るい笑い声が響いてくる。だが、順也は台所に顔を出すことはせず、そのまま階段を上がりかけた。  その時、ちょうど洗い物が詰まったかごを抱えた中年の女性が、せかせかと台所から出てきた。二階へ上がりかけた順也と目があった瞬間、その女性はなぜかドキッとしたように動きを止める。 「あ、あら、順也くん……お帰りなさい」  中年女性が眼鏡の奥の小さな目をわずかに逸らしつつそう言うと、順也は仕方なさそうに足を止め、軽く頭を下げた。 「……あ、あのね、今、前に担当してくれていた飯塚さんが遊びに見えてるの。あいさつして行ったら?」  眼鏡の女性はそう言って、どこか営業的なスマイルをその頬に浮かべて見せる。だが、それと同時に順也の頭には、やけに鮮明にこんな言葉が響き渡る。 【来る訳がないわよね】  順也は儀礼的な笑みを浮かべると、小さく首を振った。 「いえ……ちょっと今日は、疲れているので」 「そ、そう。残念だわ」  眼鏡の女性も曖昧な笑みを浮かべて頷いた。その途端、順也の頭にこんな言葉が響き渡る。 【そりゃ、当然よね。飯塚さんには、正体を知られちゃってる訳だし】  それは、セリフと言うより「意識」と言った方がいいかもしれない。眼鏡女性の順也に対する否定的な感情が、ストレートに伝わってくる感じだった。  順也は表情を変えずに小さく頭を下げると、二階へ上がっていった。 ☆☆☆  自室に入ると、順也はほっとしたように大きく息をついた。机にカバンを置くと、開いた窓から流れてくる心地よい風に眼を細める。  窓辺に置かれた小さな観葉植物の葉も、緩やかな風に気持ちよさそうにそよいでいる。  高校に入学して順也が一番嬉しかったこと、それはこの個室を与えられたことだった。  この家には子ども部屋が三室ある。そのうち、個室として使用できるのはこの一室。昨年まで使用していた女子高生は無事就職が決まりこの部屋を出た。その後釜として、高校入学と同時に最年長の順也にこの個室が与えられたのだ。  他の子どもと同室で暮らしていた頃は、四六時中他人と接触し続けなければならず、順也にとっては気の休まることのない、地獄に等しい環境だった。それ故この自室は彼にとって、唯一気の抜ける空間だった。  だが一方で、解放された精神は有無を言わせず不要な他者の感情を順也の頭に届けてしまう。 「来ないでしょ」    その居間らしき部屋では、大勢の子ども達がゲームをしたり絵を描いたりしながらにぎやかに遊んでいる。そこへ先ほどの中年女性が戻ってくると、大きな食卓の端に腰掛けた客人らしき四十代半ばくらいの女性が声をかけた。その様子が、まるで手に取るように意識の中に流れ込んできて、順也は教科書をカバンから取り出す手を思わず止めた。 「うん。声かけたんだけど」 「そりゃそうでしょうね」  眼鏡の女性が飯塚と呼んだその神経質そうなやせた女性は、苦笑めいた笑みを浮かべたようだった。 「こんなに早く帰ってくるんだ、あの子」 「ごめんね、そういえば学校が始まったばかりだから、今日は午後の授業はないんだった。言っておけばよかったわね」 「仕方ないわよ」  二人は、周囲で遊ぶ子ども達に聞こえないように、かなり声を潜めて喋っているらしい。が、その分増幅された意識により、まるで目の前で繰り広げられているかのようにその光景が順也の頭に流れ込んでくる。 「相原さんは、今のところは大丈夫?」 「うん。今のところ、飯塚さんが見たような変な現象は見てないわ」  相原と呼ばれた眼鏡の女性は首をかしげたようだった。 「今の彼を見ている限り、飯塚さんが言うような超常現象は全く起こしていないけど……本当なの? さんざん脅されたから、私、随分覚悟を決めてこのホームの担当になったんだけど」 「彼も抑えてるんでしょ。これ以上やっちゃまずいって……。大人になってきて、きっと分別がついたんでしょうね」  飯塚は手元のコーヒーを口にすると、肩を竦めた。 「幼稚園の遠足の時、いきなり走行中のバスの中から姿を消したのが最初だって聞いたわ。でも一番ひどかったのは、小学校時代らしいわね。お皿やコップが一日二,三枚必ず割れて。ひどい時は、部屋の窓ガラスが吹き飛んだこともあったっていうから」 「それ、伝説みたいになってるけど……ほんとに、あの子の仕業なの?」 「多分ね」  飯塚は頷くと、テーブルの上に肘を突き、組んだ両手の上にその尖ったあごを載せた。 「あの子がケンカをして泣かされたり、精神的に不安定になったりした時に必ず起きてたっていうから」 「へええ……怖。じゃあ、あの子を怒らせないようにしなきゃ」 「それは大丈夫じゃない? 私が担当した時も、結局実際にそういう場面を見たのは一度だけだったし、あの子自身、私たちのことを避けてるから」 「あ、やっぱりそうなの?」 「そうよ。だからこういう時も、絶対に顔を出したりしないでしょ」  順也は感情の全くこもらない目で風に揺れる観葉植物を眺めやりながら、教科書を手にしたままじっと動かなかった。  彼はただ、頭に強制的に流れ込んでくるこの意識をどうやったら止めることができるのか、その方法を必死で模索していた。  意識を閉ざす。何も考えない。何も見えない。何も聞かない。何も感じない。何も動かない。ただひたすら、意識を閉ざす……。 「この子達は、気づいてないのよね、あの子のこと」 「え、ええ。今のところね」 「よかった。でも気をつけて。子どもって敏感だから、異端な部分にすぐ気づいちゃうんだから。あの子のせいでケガをさせられた子ども達が、あの子のことをなんて呼んでたか、知ってる?」 「え、なんて?」  聞き返した飯塚に、相原はその頬に嘲笑めいた笑みを浮かべつつ、さらに声を潜めてこう言った。 「化け物」  順也が息を呑み、大きく目を見開いた瞬間。  窓辺の観葉植物の鉢が、派手な破壊音とともに粉々に砕け散った。
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