第四章 転落

121/143
前へ
/658ページ
次へ
 寺崎は言葉もなかった。三十三年前東京駅に捨てられ、数奇な運命をたどってきた紺野。その彼が、実は神代総代となるべき人物だったとは……!  亨也は目線を落とすと、ひとり言のように言葉を継いだ。 「何となく、そんな気がしていたんです。だからきっと、当初私は彼を殺すことに異議を唱えなかった。自分の存在が脅かされるような予感がしていたんでしょうね、今考えると」  小さく息をつくと、優しいまなざしでどこか遠くを見つめる。 「でも、彼がああいう人間だと分かって、本当にそんなことをしなくてよかったと……彼には何としても生きてほしいと、今はそう思っています」 「でも、このままじゃ、あいつは……」  亨也は小さくうなずくと、鋭いまなざしで前方を見据える。 「ええ。彼の性格から考えると、周囲に多大な影響を与えるくらいなら、自死する道を選ぶでしょう。このままだと」  寺崎は顔から音をたてて血の気が引くのを感じた。膝がわなわなと震え出すのを感じて、寺崎は思わず拳で情けない太股を殴りつけた。  亨也は、そんな寺崎を優しく見つめた。 「大丈夫ですよ、寺崎さん」 「え?」 「彼は絶対に死なせません」  寺崎は亨也をじっと見つめた。亨也は木漏れ日のように温かく穏やかな表情を浮かべながら、パソコン画面に目を向ける。 「私の計算では、ギリギリで大丈夫なんです」 「大丈夫って……」 「私が最大エネルギーを出し切れば、何とか被害はあの遊休地の中だけですむ、そういう結果が出ています」  寺崎は瞬きすら忘れてその言葉の意味を考えていたが、やがておずおずと口を開いた。 「最大エネルギーを出し切って、総代は大丈夫なんですか」  亨也はどこかいたずらっぽく笑うと、首をかしげてみせる。 「さあ、どうでしょうね。やったことはありませんから」  おどけた表情の裏側にある悲壮な覚悟を感じとった気がして、寺崎の顔から血の気が引いた。 「総代、それって、かなりヤバいんじゃ……」  亨也は穏やかな表情で、難解な数式がずらっと並んだパソコン画面に目を向ける。 「一応、計算ではギリギリでいけるんですけどね。ただ、これはあくまで予測ですから。紺野さんのエネルギーが予測を超えることも十分に考えられる」  それから寺崎を見やって、にっこりと笑った。 「大丈夫、紺野さんは絶対に守ります。約束します」  目線を画面に移し、表示されている数字をなぞりながら、ひとり言のように言葉を継ぐ。 「私は、彼に生きてほしいんです。今まで散々な目にあってきた分、これからはたくさん楽しい思いをしてほしい。そのためなら、このくらいの危険は何ていうことはないです」  亨也は画面から再び目線を上げると、まっすぐに寺崎を見つめた。 「だから、寺崎さん」 「は、はい」 「彼を、よろしくお願いしますね」  寺崎は言葉もなく亨也を見つめ返した。 「私の分も、彼を支えてあげてください」  亨也は寺崎に目線を合わせてはいたが、もっと先の、どこか遠いところを見つめているように見えた。 「彼がもし、神代総代としての責務を負わなければならなくなったとしたら、精神的なフォローが必要でしょう。彼がそれを、受け入れるにしても、拒むにしても……。その時、支えてあげて下さい。あなたなら、きっとそれができる」  静かに言葉を継ぐ亨也を、寺崎は瞬ぎもせず見つめていた。何も言うことができなかった。震えの止まらない自分の手を、まるでひとごとのように感じていた。  この時、享也も寺崎も気づいてはいなかったが、診察室の扉の向こうには、初老の女性がたたずんでいた。白髪交じりの茶色い髪を一まとめにし、手にはファイルを抱え、白衣を着ているその女性は、扉に耳を添わせるような姿勢でその場にたたずんでいたが、やがて体を離すと、廊下をゆっくりと歩き出した。 ☆☆☆
/658ページ

最初のコメントを投稿しよう!

47人が本棚に入れています
本棚に追加