第四章 転落

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 九時頃、玄関チャイムが鳴って沙羅が現れた。 「総代、お仕事休まれたんですね」  扉を開けて出てきた亨也の姿を見て、改めて驚いたように沙羅は言った。 「ひょっとして、このお仕事を始められてから、初めてじゃないですか?」 「そうかもしれないね、健康優良児だったから」  亨也はそう言って笑うと、外出の準備を始めた。 「どこか、行かれるんですか?」 「いろいろと、やらなければいけないことがあって。留守を頼んでいいかな。何かあれば、すぐに駆けつけるから」 「もちろんです。行ってらっしゃいませ」  亨也はうなずくと、そっと紺野のベッドルームをのぞいた。紺野は静かに眠っているように見えた。 「八時半頃、かなり強い発作があった。しばらく寝かせてやってほしい」 「分かりました」  亨也は軽く頭を下げると、そっと玄関の戸を閉めた。 ☆☆☆   寺崎は暗い表情でじっと黒板を見つめていた。斜め後ろから出流の視線を感じるが、そんなことはもうどうでも良かった。  紺野が死の危険と隣り合わせる。神代総代がそのために死ぬ覚悟でいる。自分はそれに立ち会うこともできず、待っているしかない。 「……畜生!」  呟くと、その顔を両手で覆う。血がにじむほどきつく唇をかみ、目をつむる。いったいどうして、誰かが死ななければならないのか。寺崎には受け入れがたかった。  亨也が兄弟だと知った時の、紺野の涙を思い出す。その亨也が死の危険と隣り合わせると知れば、紺野は自死しようとするに違いない。やっと出会えた兄弟だというのに、どうして別れなければならないのか。どうしても納得がいかなかった。  出流はそんな寺崎の背中をじっと見つめていた。  眼鏡の数学教師は黒板に数式を書き連ねると、生徒の方に向き直った。 「じゃあ、この解法を答えてもらいます。相当に難解ですから、得意な人にお願いしましょう。……村上さん」  出流は、その目を寺崎から無表情に黒板に向けた。黙って黒板に歩み寄ると、すらすらと数式を書き連ねていく。 「さすがです、村上さん」  感心しきったような教師の言葉にも、出流は無反応だった。すたすたと自分の席に戻って着席すると、机に突っ伏して動かない寺崎に目を向ける。  黒川は、そんな出流をじっと見つめていた。    ☆☆☆
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