第四章 転落

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 沙羅は台所で昼食の準備をしていた。  紺野は昨日よりさらに衰弱している様子で、とても台所仕事などさせられる状態ではなかった。もちろん、本人はいつものようにやらせてほしいと言ってきたのだが、今日はさすがに沙羅がそれを断ったのだ。  流しに向かって洗い物をしていた沙羅は、突き刺すような気の放出を感知し、はっとした。 ――発作だ!  急いで手を拭くと寝室に駆けつけ、扉を開ける。  その途端、放出された白い気が矢のように頭上をかすめ、はっと姿勢を低くてそれを避けると、固唾(かたず)をのんで様子を見守る。  渦を巻くように沈殿する白い気の表面を時折、稲妻のひらめきのような光が駆け抜ける。その中心で、紺野はうずくまるように体を丸め、体を震わせて耐えていた。  沙羅は腕時計で継続時間を確認しながら、沈痛な面持ちで紺野を見つめる。今はただ、発作の影響で舌をかむなどの二次的な被害が起こらないようにじっと見守るほかはない。何ともつらい時間である。  紺野は堅く閉じた目の際から涙を流し、震えながらじっと歯を食いしばって耐えている。  沙羅は、この男が痛みに声を上げたりのたうち回ったりする様子を見たことがない。最初のうちは見上げたものだと感心していたが、最近、その理由が何となく分かるような気がしてきていた。  彼は今まで、頼れるものが何もなかった。甘えたり、自分をさらけ出したりする相手もいなかった。彼にとって自身は最低の人間であり、周りの者は全て彼より上位にある。だから彼は誰に対しても敬語を使い、へりくだった態度を崩さなかった。すなわち、痛みや苦しみを訴えられる相手もない。だから彼は、絶対に声を上げて他人に助けを求める態度を見せなかった。それほどまでに、彼は孤独だったのだ。  やがて、潮が引くように白い気の放出が収まっていく。  沙羅は時計に目をやった。今回は、約五分。このところ、継続時間が長くなってきているようだ。苦しみが長引く分、紺野の体力的、精神的な消耗も激しくなってきている。 ――本当に、今日がギリギリね。  沙羅はベッドサイドに歩み寄り、頭を抱えた姿勢のままでぐったりしている紺野を上向きに寝かせ直した。そのやつれた頬には、涙の後がくっきりと残っている。  乱れた髪を整え、涙をそっと拭ってやると、沙羅は亨也によく似たその顔を見つめ、深いため息をついた。 ☆☆☆  玄関チャイムの音に、みどりは皿を拭く手を止め、慌てて玄関に出て行った。 「はい」  扉を開けて、みどりは目を見開いた。玄関ポーチに立っていたのは、神代亨也だったのだ。 「まあ、神代先生、……」  戸惑った様子のみどりに、亨也は申し訳なさそうな笑みを浮かべて頭を下げた。 「突然すみません。みどりさんに、お話ししておかなければならないことがありまして。事前にご連絡する余裕がなくて申し訳ありません。少し、お時間をいただけないでしょうか」 「ええ、もちろん構いません。でも、お話って……」  言いかけて、みどりははっと目線を上げた。その視線に答えるように、亨也はうなずき返す。 「紺野さんのことです」  みどりは急いで亨也を居間に通すと、お茶の用意をしようと台所へ行きかけた。 「あ、本当にお構いなく。少々入り組んだ話になりそうですから。時間もかかりますし」  するとみどりはにっこり笑ってこう言った。 「でしたら、なおさら飲みたくなりません? すぐにできますから」        ☆☆☆
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