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寺崎は凍り付いたように動かなかったが、そこでようやく口を開いた。
「……紺野」
「はい」
「俺を殴れ」
唐突な依頼に、紺野は目を丸くして動きを止めた。
「さっき、俺はおまえを殴ったけど、謝るつもりはねえ。だって俺は、おまえがいなくなっちまうことが許せねえんだから。あれは仕方ねえと思ってる」
「寺崎さんの気持ちは分かります。僕も謝れだなんて言う気は……」
「でも、不公平だろ」
寺崎はそう言うと、笑った。
「おまえ一人だけが殴られて終わりなんておかしいじゃん。おまえはある意味、俺たちのために消えるんだ。それなのに、……おかしい話だろ」
ほっとしたように表情を緩めると、紺野は頭を振った。
「おかしくなんかありません。ギリギリになって、いきなりこんな話を出されれば、誰だって混乱しますから……」
「……全く」
寺崎は、ため息をついて苦笑した。
「おまえって、いつもそう。落ち着いてて、優しくて、穏やかで……絶対に感情的にならねえんだよな」
つぶやくと、寺崎は紺野に向き直った。その真剣なまなざしに、紺野ははっとしたように表情を改める。
「何でもいいから殴れよ。だって、おまえ、殴られたんだぜ。おまえがいなくなっちまう、ただそれが気に入らねえってだけで……。普通、納得いかねえだろ」
「そんな、寺崎さんの気持ちは……」
「紺野!」
寺崎の怒号に、紺野は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「いいから殴れ! そうしねえと安心して別れられねえだろ!」
寺崎は叫ぶと、目を閉じて奥歯をきつくかみしめる。
紺野は困惑しきった顔でうつむく寺崎を見つめていたが、ゆるゆると自分の右手に目線を移した。そうしてしばらく、じっと右手を見つめていたが、ふいにぐっとその拳を握りしめると、意を決したように顔を上げ、寺崎の左頬めがけて渾身の右ストレートをたたき込んだ。
乾いた音が甲板上に響き、玲璃は息をのみ、周囲を取り囲む野次馬がどよめく。
寺崎は、たまらず一歩よろけたようだった。
「……ってえ」
寺崎は口元の血を拭うと、目を丸くして紺野を見つめ、笑った。
「驚いた。おまえ、結構パンチ重いな」
紺野は黙っていた。何も言わず、硬い表情で足元をじっと見つめている。寺崎はクスっと笑うと、顔を上げて周囲の野次馬を見回した。
「どーもお騒がせしました! これで終わりましたんで、だいじょーぶです!」
やけに明るくそう言うと、うつむいている紺野の肩をぐいっと引き寄せる。
「もう仲直りしましたんで、ご安心ください! お騒がせして、マジですんませんでした!」
大声でそう言いながら船室に向かって歩き始めた二人に気おされて、やじ馬たちは戸惑った様子で道をあけた。寺崎はペコペコ頭を下げながらその道を通り、紺野を引きずって船室に降りていく。玲璃も慌てて会釈しながらその後を追った。
いつのまにか陸が近づき、船は間もなく周遊を終えるところだった。
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