序章

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序章

1.桜  吹き付ける風とともに枝から一斉に離れ、傍若無人に目の前を横切る花びらの集団。視界を遮られて鬱陶しいのか、東順也(あずまじゅんや)は眉根を寄せると、目元にかかる茶色い前髪をわずらわしそうにかき上げた。  校門前は記念写真を撮る新入生でごった返していた。友だち同士肩を組んだり、照れ隠しのつもりだろうか、こころもち離れて母親と並んだり。組み合わせはそれぞれだが、彼らの顔には皆、一様に晴れやかな笑顔が浮かんでいる。  順也はそんな彼らにちらりと不快そうな視線を投げてから、すぐに足もとに目線を落とすと、足早に校門を抜けた。  一九@@年四月八日。都立青南高校はこの日、百三十五回目の入学式を迎えた。   ☆☆☆  埃っぽい廊下を歩いて、順也は指定された教室に向かった。  彼のクラスは一年C組。今年度から改築工事が始まっており、運悪く新一年生はプレハブの仮校舎でこの一年を過ごさなければいけないらしい。春真っ盛りの今はいいとして、冬などはすきま風がさぞ身に染みることだろう。  だが、順也はそんなことはどうでもよかった。校舎が新しかろうが古かろうが担任が誰であろうが、彼はそんなことには興味がない。彼がこの学校に入学した目的はただ一つ、T大に進学することだけなのだから。  偏差値至上や学歴偏重が幅を利かせていたこの時代、T大進学はすなわち安定した将来が確実に手に入ることを意味していた。決して恵まれているとは言いがたい環境で育った彼にとって、ハイレベルな未来を確約されるT大進学は、何をおいても実現しなければならない目標の一つだった。  T大に進学するためにはまず、ある程度レベルの高い高校に進学する必要がある。しかし、彼には私立校に進学する財政的余裕はない。ゆえにT大進学率が高く、同時に学費も安いこの都立高校に入学することは、彼にとってここ数年来の最大目標だった。その目標を達成した今、表情にこそ出さないまでも、心地よい充足感が彼の心を満たしていた。  順也は窓際の風通しの良い席に腰を下ろした。  教室内にはまだポツポツと新入生の姿があるだけだった。順也と同じように一人で静かに着席している者もあれば、さっそく近くの席の者同士で会話を始めている者もある。共通の話題で盛り上がっているらしく、時折、控えめな笑い声が人口密度の低い教室内の空気を震わせる。  順也は笑い声の響いてきた方向にちらりと目線を流したが、特に興味をひかれる様子もなく、カバンから取り出した参考書に目を落とした。  彼は生まれてこの方、「友だち」と呼べる存在を得た経験がない。  友だちを得ることに魅力も必要性も感じないし、孤立に対する不安や寂しさも感じない。彼にとっては級友はたまたま同じ教室に居合わせただけの他人に過ぎず、友だちとの付き合いは無駄な時間の浪費に過ぎない。ゆえに、他のクラスメートがどれほど楽しそうに笑い合っていようが、その理由に思いをはせることも、興味をひかれることも一切なかった。  加えて、彼には他者との接触を最低限にとどめなければならない「個人的な事情」があった。その事情ゆえ、彼にとって孤立は必要不可欠な生活要件でもあった。  他人との接触を避けることで、無駄な人間関係に時間をとられることもなく、精神的安定が得られ、勉学にも集中でき、なおかつ「個人的な事情」も守られる。そのため、彼は小学校でも中学校でも、自ら進んで孤立を求め、意識的に他者とのかかわりを断って暮らしてきた。  しだいに人の数が増え、ざわざわとにぎやかな声がそこかしこから聞こえるようになってきた。だが、純也はそんな周囲の雑音には全く注意を払うこともなく、まるで透明の壁で隔絶されてでもいるかのように黙々と参考書を読みふけっていた。  その時だった。 「あの、すみません……」  純也は驚いたようにページを繰る手を止めた。それから、おずおずと首を巡らせて、か細い声の響いてきた後ろの方に目線を向ける。  机と机の間にある細い通路に、一人の女生徒がたたずんでいた。  二つに束ねられた黒髪に、化粧っ気の全くない顔。制服も着崩さず校則通りの着こなしで、流行の髪形や薄い化粧をしている女子も多い中、ぱっと見た感じではおとなしそうで目立たない、どちらかと言えば垢ぬけない印象を受ける女生徒だった。  しかしなぜだか、純也は彼女の黒い瞳と目が合った瞬間、背筋に戦慄(せんりつ)めいた感覚が一気に駆け上がるのを感じて息をのんだ。まるで凍りついてしまったかのように体が動かなくなり、その凛としたまなざしから目が離せなくなる。  女生徒は返答を待つかのように、前で手を組み、軽く首をかしげて順也を見つめている。だが、順也は背筋を駆け上がる悪寒――しかし、それは全く嫌なものではない――にも似た感覚に耐えるのに必死で、一言も言葉を発することができずにいた。 「あの……」  柔らかそうな唇から漏れる、高く澄んだ声。順也は必死で言うべき言葉を探した。だが、訳の分からない感覚に戸惑っている上に、彼は同年代の女子と言葉を交わした経験がない。頭の中が真っ白になるというのはまさにこういう事なんだろうとやけに客観的な自己分析をしつつも純也が何を言うこともできずにいると、女生徒の瞳にかすかに悲しげな色がにじんだ。 ――まずい。  純也は意を決すると、乾ききった喉に粘つく唾液を流し込み、かすれた声を絞り出した。 「何、ですか」  たどたどしくそっけないながらも、同年代の女子に生まれて初めて言葉をかけたのだ。爆発的な勢いで心臓が拍動し、頭に血が上って半分訳が分からなくなる。そんな純也の内心は知る由もなく、女生徒はホッとしたような笑みを浮かべると、おずおずと言葉を返してきた。 「その席、私の席なんですけど……」  純也は最初、彼女が何を言っているのか分からなかった。怪訝そうに眉をひそめてから、彼女の指さす方向――正面黒板に目線を移して、凍り付いた。  黒板には、各自の座席が記された大判の模造紙が貼りつけてあった。列の一番後ろに、自分の名前が書かれているのが見て取れる。そして、彼が座っているこの席には、自分とは別の名前――恐らく彼女の名であろう、女生徒の名が書かれていたのだ。  順也は椅子を鳴らして立ち上がった。思考が沸騰して頭の芯が凍りつき、頬が見る見るうちに熱く火照り出す。 「す、すみませんでした!」  早口でそう言いながら勢いよく頭を下げると、純也は大慌てで机上の荷物をまとめ上げ、カバンをつかんだ。席を移ろうと踵を返した拍子に、抱えている荷物からシャープペンシルがこぼれ落ち、薄汚れたリノリウムの床に高い音を立てて転がる。  ドキッとして振り返った順也の視界を、細く白い指先がスッと横切った。  女生徒は床に落ちたシャーペンをその指先で拾い上げると、はにかんだ笑顔を浮かべながら順也の目の前に差しだした。順也は差し出されたシャーペンを見つめてしばらくは凍りついていたが、ややあって、そろそろと右手を差し出す。  順也の震える手のひらに、女生徒はシャーペンそっと載せた。その拍子に、桜色の爪先が純也のてのひらに微かに触れる。  心臓が縮み上がるような感覚に息をのんだ純也は、思わずシャーペンをひったくるようにして受け取ったが、乱暴な態度をとってしまったことに気づいてハッとすると、恐る恐る女生徒の様子をうかがい見た。彼女はしかし、口元にほのかな笑みをたたえた穏やかな表情で純也を見つめているだけだった。 「あなたの席は隣の列の一番後ろよ、東くん(・・・)」    彼女が自分の名を呼んだ、瞬間。背筋を電流が走るような感覚に襲われ、順也は呼吸すら止めて凍り付いた。  言葉を返すことばおろか顔を上げることもできなくなった順也は、足元を見つめたままで小さく頷くのがやっとだった。フラフラする足取りで、やっとのことで列の一番後ろにたどり着くと、そこでようやく目線を上げて彼女の様子を盗み見る。  椅子に座り、体を斜めにして机の脇に手提げを掛けている彼女の、傾けられた華奢(きゃしゃ)な肩と、細い首筋にかかる黒い髪。漆黒の髪に縁どられた白い首は、肌の滑らかさが一層際立って見える。  順也は黒板の座席表に目を移し、そこに記されている彼女の名前を確認すると、頭の中で再度、その名をかみしめるように繰り返した。 ――大沢、裕子。  順也は自分の席から彼女の姿がよく見える事を、なぜだかとても嬉しく思った。彼女の席に間違えて座ってしまった偶然さえも、ひどく神秘な事のように思えてならなかった。 ☆☆☆ 「それでは、級長は東さんにお願いします」  ぼんやりと裕子を眺めやっていた順也は、あっけにとられて担任である女性教師の顔を見た。  四十歳前後と見られる横幅逞しいその女性教師は、そんな順也の視線など意にも介さず、やけに余裕に満ちた笑みを脂ぎった頬に浮かべている。 「実は東さんは入試の時、最高点を取っているんです。とても優秀な生徒なんですよ」  さざ波のようなざわめきが広がった。  順也は忌々しい思いで俯いた。級長などという面倒くさい役割は、クラスの誰しも何をか理由をつけて誰かに押しつけてしまいたいものだ。しかもだめ押しにこんなことまで言われては、どう転んでも順也が級長をやらざるを得ない。無責任な決め方に内心腹をたてつつも、断る勇気もない。仕方なく頷くと、どうでもよさそうな拍手がぱらぱらと起こった。 「それじゃ書記は、級長が男子だから女子の方がいいわね。誰か立候補してくれませんか?」  自分の思惑通り事が運んだことが嬉しいのか、担任は満足そうな笑みを浮かべながらクラス内を見渡した。生徒たちはその視線から逃れるように顔を背け、クラス内は水を打ったように静まりかえる。  書記が誰になろうが、順也にとってはどうでもよかった。思い描いていた今後の計画に大幅な変更を加えなければならないのだ。落胆にうちのめさながら、純也が腹の底から絞り出すようなため息をついた、その時だった。 「私、やります」    聞き覚えのある、鈴を転がすような高く澄んだ声。  弾かれたように顔を上げた順也の視界に、斜め前の席に座る大沢裕子の後ろ姿が映り込んだ。無造作に振り分けられた黒髪の間からのぞく白い首筋が、ほんのりと赤みを帯びているのがはっきりと分かる。  心臓が激しく踊り始めるのを感じつつ、順也は瞬ぎもせず彼女の後ろ姿を凝視した。 「まあ、立候補してくれて嬉しいわ。えっと、あなた、名前は……」  満足そうに頷く担任教師の問いに、裕子は小さな声で答える。 「大沢です」 「大沢……ああ、裕子さんね。分かりました。それじゃ、二人ともよろしくお願いしますね」  クラス中から、面倒くさい役を押しつけられずに済んだ安堵感と、そんな役を押しつけてしまった微かな罪悪感の入り交じった拍手がパラパラと起こる。  しかし、順也の耳には拍手の音など届いていなかった。彼は全神経を、うつむく大沢裕子の細い首筋と華奢(きゃしゃ)な背中に集中していた。  その時。純也の熱い視線を感じたのだろうか、裕子がくるりと首を巡らせて順也を見た。  当然のごとく、裕子の目線と順也の熱い目線がぴたりと重なる。  順也はドキッとしたように凍りついてから、あわてて足元に目線を落としてうつむいた。  裕子はそんな順也を眺めやりながら、ばら色の頬にふと、心なしか妖しげな笑みを浮かべた。
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