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「え、売り切れ?」
俺はまさかと、空になった木箱と果物農家のおじさんの顔を見比べた。
「悪いねぇ、今さっき全部売れてさぁ」
瀬戸内にある卸売市場の一角だった。
早朝、真っ先に市場へ駆けつけてきたのに、目当ての品は数分のタッチで売りきれたという。
「一個もないんですか?」
「一個もないねぇ。不揃いのやつまで全部売れた」
買う予定だったのは『湖池レモン』。一個五千円もする高級品だ。
希少品とはいえ、市場には百個以上が用意されていたはずだ。そんなに早く完売するのはおかしい。
「あの、傷モノでもいいんで、なんとかなりませんか?」
「そう言われてもねぇ。あんた学生さん?」
懐があたたまり上機嫌なおじさんに、俺は絶望の思いで首を振る。
この俺、深味あかりはれっきとした料理人である。
勤めるのは超高級レストラン「リストランテ・ミラベル」。いずれはミシュランの三ツ星も獲得すると言われる有名店で、俺はそこの見習いシェフだ。
二十四歳で有名店に入れたのは僥倖だったが、なにかと失敗続きの俺は現在、クビの瀬戸際に立たされている。店から仕入れを命ぜられた『湖池レモン』――仕入れをしくじれば今度こそ解雇されてしまう。
学生あがりみたいなラフな格好できたのがまずかったかもしれない。足もとを見られているのかと、俺は店の名を出して事情を説明した。
「なんとしても持ち帰らないといけないんです。『リストランテ・ミラベル』のオーナーが必要としてるんですよ! ひとつだけでいいです、売れない品でも高く買いますから……!」
「リスト・ミラ?」
「ミラベル! あの超有名店ですよ!?」
俺の声は悲鳴に近かったかもしれない。メディアで取りあげられる有名店でも、知らない人はとことん知らない。おじさんは「知らないねぇ」と軽くあしらい、なぜか顎をしゃくった。
「そんなに言うなら、譲ってもらいな」
「え?」
「あそこの兄ちゃん。マスクとサングラスの。青いダウン。さっき全部買ってった人」
数メートル先を歩く男の後ろ姿が見えた。出口へと向かう背に、俺は全力で駆け出していた。
「待ってください!」
呼びかけに振り向いた青ダウンの男性は、マスクに黒いサングラスという異様な出で立ちだった。俺に気づくや、なぜか慌てたように逃げ出していく。
「ちょ、なんでっ……待てって!」
卸売市場の外へ出る男を全速力で追いかけた。脚力には自信がある。
あと数メートルで手が届くというところで、けれど男は白い軽トラの助手席に飛び乗った。目の前で閉まるドア、その窓を叩き、俺はすがりつくように叫んでいた。
「あなたが買った『湖池レモン』! あのちょっと!」
気づいているだろうに、男は運転席にいる誰かに頷き、すぐに車を発進させた。
ひとり残された俺は茫然とトラックの巻きあげるほこりを見つめていた。
「えぇぇぇ……?」
大切な食材の買いつけに失敗した、今度こそ終わった。自らのクビを悟った瞬間だった。
「クビだな」
都心近郊にあるミラベルの店に戻ると、八嶋支配人に案の定そう告げられた。
夕刻、ディナーの準備で忙しくなる時間帯だ。
下ごしらえやスープの仕こみ、打ち合わせでシェフたちはみな、持ち場で忙しい。
メニューや伝票を確認しながら、八嶋支配人は厨房から店へ歩いていく。俺はその小さな背を、捨てられた子犬のように追いかけた。
「待ってください、買いつけには失敗したけど、たかがレモンひとつで」
「たかがレモンひとつゥ?」
振り返った支配人の眼光は鋭かった。小柄なのに、放たれる声に圧力がある。
「あのねぇ、深味(ふかみ)くん。君ができるって言うから、僕はチャンスを与えたんだよ。貴重な機会を君はふいにしたの、まだ何か?」
「でも、……」
厨房では『湖池レモン』の代替として変更されたメニューが、早くも作られていた。厨房で指揮をとっているのは最年少の青年シェフだ。
料理界の寵児・海堂瞬。
俺と同じ二十四歳なのに、メニュー開発を任されている。
鷲鼻に反抗的な目の嫌なやつで、神経質な造作は整っているが、プライドが高すぎて同性からは嫌われるタイプだ。
真剣な顔で海堂は皿に仕上げの飴細工を乗せていた。愛媛のいよかんを皮ごと使った芸術的な盛りつけのひと皿が見える。遠巻きに眺めていると、すぐに八嶋支配人の喚き声がした。
「深味くん、聞いてる? 君のせいでクビになるかもしれないんだよ、この僕ですら! 十九時にオーナーが来店するのに、リクエストのあった『湖池レモン』の料理はない、君のせいで!」
「け、けど、いよかんで代用できるんでしょう?」
今日はリストランテ・ミラベルのオーナー、若王子勝彦が来店する珍しい日だった。絶対君主・若王子勝彦は来店にあたりリクエストを出していた。
いわく、「高級食材『湖池レモン』を使った料理を」と。それで俺が先だって、仕入れに派遣されたわけだ。要望が急だったから食材を入手できなかったのは仕方ないのではと、俺は酌量の余地を求めている。それに、件の天才シェフ・海堂瞬が代用の料理を作れるなら、それでいいのではないか。
八嶋支配人はオーバーリアクションで呆れを存分に表現してみせた。アメリカ人もかくやというジェスチャーを添えて。
「代用品じゃだめ、わかる? オーナーがコレと言ったら必ずそれをそろえる! それがプロ。なのに君ときたら……料理だけじゃない、簡単な買いつけすらできないなんて。君、はっきり言って料理人に向いてないよ。僕もう君に何度か言ってきたけど」
「でも、まだ入って半年なのに」
「半年の間に君がやらかしたこと、全部挙げてみせようか? 割った食器と台無しにした料理の数は!? 君をクビにできてせいせいするよ、しっしっ」
「そんな、――」
「支配人」
厨房と店を隔てるカウンター越しに、海堂瞬が出来上がったばかりの美しいひと皿をさし出していた。
「味見、お願いします」
彼のつくる料理はいつも前衛芸術のようだ。差し出されたひと皿を見て、思わずこの俺ですら息をのんでしまうほどに。
八嶋支配人は差し出された皿を恍惚と眺め、ひと口すくい食べると目を輝かせた。
「ブラーヴォ!」
白い深皿に橙色のいよかんソースがまぶしい。中心に、実をくりぬいた愛媛いよかんが誇らしげに置かれている。繊細に添えられた野すみれの小さな花。摘みたての香草、絶妙なバランスで葉野菜を周囲に盛ってある――深い森に橙色の夕陽が浮かんでいるみたいに。
海堂瞬は俺と目が合うと、得意げにスプーンを差し出してきた。
「『森の小道、熟成肉にソースを添えて』。お前も味見する?」
八嶋支配人が手を振った。
「いいよもったいない。君の料理、ひと皿いくらすると思ってるの。この役立たずには必要ない、んんん、パーフェクツ!」
恍惚と料理を口に運び続ける支配人の横で、海堂瞬は首を傾げた。
「まあ、たしかに役立たずだけど。こいつの舌は確かですよ」
うすく笑む海堂瞬と目が合い、かっと頭に血がのぼった。嘲笑われている。
「っ、どうもお世話になりました!」
「とっとと消えろ。ばいばーい」
腹立たしい支配人の声を背に受け、足取り荒く俺はミラベルの店を後にした。
「こんなのって……!」
短いとはいえ半年も勤めてきたのだ。料理人としては未熟だったかもしれないが、少しずつ成長できていると思っていたのに。
いつかあの海堂とだって肩を並べやっていけると、そう信じ仕事をこなしてきた。俺はまだ見習いのぺーぺーだけど、でもいつかきっと、と。
俺はふらふらと店の裏手へ向かっていた。頭を冷やさなければ。
なんとかしてクビを取り消してもらわねばならない。せっかく有名店に入れたのに、このまま引き下がるなんてもったいなさすぎる。
(他の店じゃだめなんだ)
リストランテ・ミラベルには、他のどこにもない特別な点がある。
世界を放浪する料理界の絶対君主、マエストロ=トゥーリ。彼の味の片鱗が、あの店にはあるのだ。
トップ・オブ・ザ・トップシェフ、マエストロ=トゥーリ。味覚の魔術師とも呼ばれる、世界で一番「美味しい」料理を作るとされる人物。俺の生涯の憧れ。俺がシェフになった理由でもある、将来の理想形。
(まあ、俺の生涯をかけたって、あそこまで極めたものが作れるかはわからないけど)
なにしろ、マエストロの料理を食べた者は生涯その味を忘れない。一年たっても十年たっても、極彩色の美味の衝撃が脳裏にこびりついてしまう。
俺は体感としてそれを知っている。
以前、フランスに行ったとき、俺はマエストロの料理を口にした。といっても、マエストロの働く高級料理店に行ったのではない。マエストロが偶然、一般の大衆食堂で料理をしていて、なにも知らない俺はそこでランチを頼んだのだ。
フランスのかた田舎、安っぽい食堂で。唯一の見どころといえば、テロワールの恩恵を受けたすばらしいワインくらいだったろうか。旅行者の俺は、けれどそこでとんでもない本格料理を味わうことになった。
ひと口食べて取り巻く空気が激変した。
視覚、嗅覚、触感でさえも味に支配された。脳は味蕾(みらい)に広がる極彩色を理解しようと凍りついていた。俺に料理を運んできたウェイターが、不思議そうに俺を眺めていたのすらおぼえている。鮮明な記憶。瞬間の――。
数種類のハーブ、コショウ、黒トリュフ、生クリーム、レモン――使われている食材はわかるのに。それらが組み合わさったとき、絶妙な味が形成された。そのプロセスと結果が理解できなかった。
美味しいという言葉ではとても足りない、表現する言葉をもたない。美味しさを越えた何かだ。マエストロ=トゥーリの料理とはそういうものだった。芸術世界と呼びかえてもいい。
ひとつ誤てば衝撃で人をも殺しうる、力と情熱をはらむ味。
そのとき、俺はマエストロのような料理を作ることを生涯の目標にした。料理を口にし、ただひたすら感涙する俺に、マエストロは厨房から顔をのぞかせた。日本人だという俺に、日本にもマエストロのレシピを使う店があること、そこに入れるように話をつけてくれたのだ――それがリストランテ・ミラベルの店だ。
「なんとかしないと」
こんなところで諦められない。
いつかマエストロに会うその日まで、俺は料理人として腕を上げねばならない。
ミラベルの店の裏手には丈の高い草がめいっぱい茂っていた。前人未踏という雰囲気だが、よく見るとすこし先に小道があって、その先に何かがありそうだった。俺はふらふらとそちらへ歩いていった。頭を冷やし考えなければ。
(支配人の機嫌が戻るころ、もう一度戻って謝ってみるか)
今日はオーナーが来店する。そのごたごたが運よく収まっていれば、支配人の気分も変わっているかもしれない。
つらつらと考え歩くうち、家庭菜園やビニルハウスのある敷地にいた。誰かの私有地に入ってしまったらしい。
「ん?」
ビニルハウスの入り口、見おぼえのある段ボール箱が山と積まれていた。
レモンと、瀬戸内の島の絵が愛らしく描かれている。
『湖池レモン』
俺が仕入れに失敗したばかりの超高級レモンが、無造作に放置されていた。
「えっ、えっ?」
段ボールの蓋を開けてみる。鮮度を保ったみずみずしい柑橘の香りが広がった。まだ新しい、少なくとも一週間以内に仕入れたばかりだ。あたりを見回すと、コンクリートの無骨な建物があった。つるりとした灰色の壁は一面蔦で覆われている。緑色の立方体だ。入り口は重そうな樫の扉だった。扉の横に御影石の表札があった。
(ビストロ・アレグリア?)
「うぉっ」
突然、木扉が内から開いた。出てきたのはいかめしい顔つきの男だった。ぎょろりとした目は濁り、魚のように離れている。頭は見事なまでの禿頭。五十代くらいだろうか。頑健そうな体に、かっちりとしたスーツ。ガタイはいい。不思議とただならぬ雰囲気があり、こわい。きちんとした格好をしているのに、どうみても堅気の人間には見えなかった。
「お客様でしょうか?」
とっさに俺は言葉を失った。
男は頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように見て「ふむ」と扉を開く。
「いらっしゃいませ。お隣のリストランテの方ですね? 名高い一流店、ミラベルのシェフにご来店頂けるとは、光栄のかぎりです」
「いや、俺はレモンのことで――……」
誘われるまま中へ入ると、ふくよかなバターの香りに包まれた。
店内は意外と広い。無人だからかもしれない。
打ちっぱなしのコンクリートの内装、テーブル席が十ばかりある。いずれもクロスと食器がきちんとセッティングされてある。すべての席が埋まるほどに客は来ているのだろうか。こんな人しれない場所で。
店内に満ちるよい香りは、ソテーでもしているのだろう。厨房は店奥にあるらしく、小さな丸窓のついた銀扉の向こうで脂のはぜる音がした。
「レモン、と仰いましたか?」
鋭い形相で問われ、はっとする。
「湖池レモン! さっき外で見たんです、あれって」
「あぁ、さすがミラベルのシェフはお目が高い。あちらは最上級の瀬戸内レモンでして、先日仕入れたばかりで鮮度もよく――」
「まさか、昨日?」
「ええ。昨日、仕入れて参りましたが」
それが何か、と目を細める男を、俺は思わず指さした。
昨日の人だ!
俺の数瞬前、タッチの差で湖池レモンを買い占めていた人!
「あの。お客様、失礼ですが?」
「譲ってもらえませんか? 俺、昨日あのレモンを仕入れに行って、もう全部売り切れたって言われて。あなたのことも追いかけたんですけど」
一瞬思い出すように固まった男は「あぁ!」と微笑んだ。強面なのに笑うと愛嬌がある。
「そういえば。あの日、雪夜さまを追いかけていらっしゃった方でしたか」
「……雪夜さま?」
「当店のシェフです。申し遅れました、私、雪夜さまにお仕えしております、儀防(ぎぼう)と申します。先日は車で、雪夜さまの仕入れにお供しておりました。――失礼ですが、お名前をお伺いしても?」
「あ、……深味(ふかみ)です」
「深味さま。湖池レモンの件で本日はお越しになられたのですね?」
「あ、はい。まあ」
俺は昨日からの一連の出来事を話し聞かせた。
仕入れに失敗し、そのせいでミラベルをクビになったこと。今からでも湖池レモンを持って行けば遅くはないかもしれないこと。だからひとつでもいい、譲ってくれないかと。
儀防さんは趣ある態度で話を聞くと、最後に「なるほど」と重々しく頷いた。
「お話はわかりました。大変ご迷惑をおかけしたようで、申し訳ございません。今からでもすぐにお譲りしたいところですが、申し訳ございません。あちらは雪夜さまのものなのです」
「そ、そこをなんとか!」
あれだけあるのだ、ひとつくらい!
抑えきれなかった思いが表情に出たのだろう、儀防さんは片眉をあげた。
「お気持ちは重々お察しいたします。雪夜さまに直接おうかがいしてみましょう。どうぞこちらへ」
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