フルーツシェフと記憶の皿

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 儀防さんに連れられて厨房へ入ると、バターとニンニクの香りに包まれた。  アイランド型の作業台があって、壁際のコンロで青年が何かを焼いている。 「雪夜さま、すこしよろしいですか?」  青年は手元を見たまま答えた。 「儀防さん、いいところに。ちょっとこれの――」  青年の視線がすいと儀防さんから俺に流れる。アーモンド形の瞳が驚愕に見開かれた。青年は手にしたフライパンを、盾のようにして構えた。見知らぬ俺に対してバリアをはるように。 「ッ、それ誰!?」  パチパチ油の跳ねるフライパンに、俺は反射的に身を引いた。危ない。  儀防さんが「落ちついて」と間に入ってくれる。 「こちらはリストランテ・ミラベルのシェフ、深味(ふかみ)さまです。怪しい方ではありません」 「ミラベルの……?」  青年――雪夜は、まじまじと俺の服を見てくる。そういえば、店からそのままここへ来たので俺は白いシェフ服のままだった。胸のあたりにはでかでかとミラベルのロゴが入っている。ブランドと格式を強調する、流麗な筆記体。くるくるカールする文字の穂先を雪夜はじっと見つめていたが、しばらくして目線を鋭くした。背後へ手を伸ばしたと思ったら、握られていたのは鋭いペティナイフだった。 「でも、安全な人間とはかぎらないよね。シェフなら特に。僕を切り刻もうとするかも知れないし」 「はい?」  今ナイフを向けられているのは俺なのだが。というか、なんだ切り刻むって。  儀防さんが「ご安心を」と微笑む。 「ミラベルは格式高い店です。雇い入れの際、身辺調査を行うとうかがっております。こちらの深味さまは後ろ暗いところのない、立派なシェフです」 「えっと。俺はもうクビになってるんですけど」  俺は内心首をかしげていた。雇われる際、身辺調査なんてされたのだろうか。店ではそんな話、聞いたことがない。  儀防さんが一連の顛末を手短に話してくれた。  俺が湖池レモンを必要としていること。それが無いせいでミラベルをクビになってしまったこと。 「ですから、雪夜さま、彼にひとつ――おや?」  呼び鈴だ。店の入り口から鈴の音が聞こえている。 「少々、失礼いたします」  儀防さんは厨房を出て行き、俺と青年だけが残された。気まずい沈黙を破ったのは、意外なことに雪夜だった。 「来客。すぐに戻ってくるよ。それより君、本当にシェフ?」 「はあ。一応」  疑るような視線に俺は胸をはる。実のところ、俺は料理のひと皿も任せてもらえない見習いだったが、それでもシェフには違いない。  ゆっくり眺めてみると、雪夜の背はそれほど高くなかった。男性シェフにしては珍しく、ひょろりと痩せている。筋肉のすくない細い体。色白で儚くみえる。風吹けば倒れそうだ。二十歳そこそこだろうか、ともすれば未成年のようにも見えるが。  糖蜜色の髪はさらさらで、丸いシルエットに短く整えられている。  皮を剥いたエシャロットみたいに肌はつると白い。頬は良質な真鯛のように、美しい珊瑚色をしている。長いふさとした睫、ふっくらしたマシュマロの唇。  中性的な顔立ちだ。アーモンド形の大きな目がひときわ印象深かった。感情だだ漏れの瞳は今、好奇心に光っていた。 「これ食べてみて。試作品なんだけど、ソースの素材を当ててみせてよ」 「えっ、なんで?」 「できないの? 仮にもミラベルのシェフなのに」  たったいま調理されていた白身魚が、挑むように差し出された。  皮はカリッと、身はふっくらジューシーに焼き上がっている。皿にはレモンイエローのソースが用意され、三日月形に輝いていた。  つけあわせの隠元豆とスライスの白カブ。三つ葉の形をしたオクサリス。それにうす紫の、小さなエディブルフラワー・花穂紫蘇(はなほしそ)が、アーティスティックにトッピングされている。  一緒に置かれた銀さじを見て、腹がぐぅと鳴った。夕飯の時間も近いし、先ほどからバターとニンニクの芳香に胃が刺激されている。 (ちょっとだけ……)  銀さじで明るいイエローソースを口に含む。  瞬間、レモン色が目の前に飛び散った。  味蕾がキャッチした個々の味が、空間に幻想を広げていく。真っ白のキャンバスに絵の具をまぶしていくように。  大きな背景色としてはレモンだ。  とても新鮮な採れたての味、おそらく湖(みず)池(ち)レモン。それからバター、ニンニク、塩コショウ、オリーブオイル、魚の風味に加えてパセリ。クルミ、コンソメ、卵黄に白ワイン――複数の味が主張しすぎず、ひとつにまとまっている。  とてもよく出来た味だった。非のうちどころのない白身魚のポワレ。完璧な。いや、完璧すぎるくらいの。  俺はこの味におぼえがあった。驚くべきことだ。すこしレモンの主張が強すぎるが、間違いない。 「これ、マエストロ=トゥーリの――?」  雪夜は驚いた顔になった。やはりそうなのだ。  料理はつくり手によって味が変わる。同じ素材・調理法でも、達人と呼ばれるシェフと一般人ではかすかに味に差が出る。  人間の舌とはおもしろいもので、その絶妙な差を感じ取ることができる。とくに俺には。 「美味しい」  遠慮なく何度もソースを口に運んだ。たしかにこれはマエストロ=トゥーリの味つけだ。リストランテ・ミラベルで得た数回の機会をのぞいて、久々に口にできたふくよかな味でもある。  マエストロの料理の面影は、食べた瞬間に判別できた。彼の作り上げる味の響きは、誰にでもわかるほど独特だ。  口に入れた瞬間にぱっと広がる芳醇さ。なめらかで香ばしく、尖りや雑味がまったくない。全体の調和を通してひとつの『味』となっている。 俺は知らずに泣いていた。  普通の人が食べても衝撃の美味しさなら、俺にとっては劇薬だ。  美味。脳天がしびれるくらいの快楽。体のすべてが己の敏感すぎる舌感覚にもっていかれてしまう、この感じ。 (そういえば、味覚だけはミラベルの店でも褒められたっけ)  料理の腕がさほどなくても、やる気だけであの店に採用されたのは、俺が特別に味を判別しやすい体質だからだ。俗にいう「スーパーテイスター」である。一度食べたものの味なら忘れない、そこになんの食材が使われているか、瞬時にわかる。だからといって、料理の腕前に直結するわけではないのだが。 ソースを何度も口に含み、ぼろぼろ涙しながら俺は怒っていた。猛烈に。 「なんでっ、これはマエストロ=トゥーリの味です。っ、どうしてこの味が作れるんですか! ちょっとレモンがきついけど、こんなに――」 (こんなに再現度の高いレシピをどこで)  ミラベルの店にはマエストロのレシピが残されている。マエストロの味と技術を引き継がんとする海堂瞬のような、才能あふれるシェフもいる。格式高いミラベルの店でマエストロの味が再現されているのは頷ける。でもこれは――。  雪夜は俺を凝視していた。まずい、俺は慌てて涙をぬぐった。急に泣き出して怒るなんて、完璧な変人だ。 「君、名前は?」 「っ、深味(ふかみ)です、けど」  おずおず答えると、彼は満足したように頷いた。 「深味くん。君には味がわかるんだね。マエストロの味が、よくわかるんだ」  雪夜はきらきらと目を輝かせていた。何がそんなに彼を喜ばせたのだろう。  儀防さんが急ぎ足で戻ってきたことで会話は中断された。 「問題が発生しました。雪夜さま、当店にお客様がお越しになりました」 「問題は解決したよ。彼を雇おう」  雪夜は俺を顎で示した。 「え」「え?」  固まる俺と儀防さんの視線がクロスする。雪夜は美しく微笑んだ。悪だくみをする子供のように。 「彼に味見をしてもらう。それで僕の料理は完成だ」 「雇うって、俺を?」 「クビになったんだろう? なら、ちょうどいいじゃないか」  雪夜は料理にかかり始めていた。たった今来店したという客のために、前菜を用意するのだろう。野菜をとりわけ、手早く水で洗っている。  儀防さんが「なるほど」と頷いた。 「待遇はミラベルと同じでいかがでしょうか?」 「ちょ、ちょっと待って。俺はレモンをもらいに来たんですけど」 「レモン?」  雪夜はサラダ用のソースをかき混ぜて、にっこりしている。びっくりするほど綺麗だが、すこしうすら寒くなる笑みだ。 「そんなのいくらでも譲ってあげるよ。ただし。今来たお客さんに料理を作るから、手伝ってほしい。終わったら好きなだけ持っていって」  ここで働く話も、それが済んでから考えてと雪夜は言う。湖池レモンが市場価、一個五千円もすることを思えば、すこしの働きで何個も譲ってもらえるのは破格の条件だが。 「わかりました。で、俺は何をすれば」 「君には味見をお願いするから。出来上がるまで待っていて」 「はい?」  味見はメインシェフの仕事だ。最終的な料理の可否を問う仕上げだからだ。 調理を下位の者が行うことはあっても、最後の仕上げは必ず最高責任者が行う。つまりこの場合なら雪夜だが。  サラダの下準備や料理の下ごしらえくらいかと予想していた俺は、茫然と立ちすくんでいた。雪夜がそれらを手際よくすませてしまうのをただ眺めるしかない。  エディブルフラワーとナッツ、ハーブに葉物野菜、。雪夜の長い指で、それらが鮮やかに皿へ散らされていく。  真ん中にゼラチンで固めた三層に色づく野菜のテリーヌ、光輝くその上に、クランベリーソースを回しかけている。  ただひたすら眺めるばかりの俺に、儀防さんがそっと耳打ちしてくれた。 「味見というのは実際、雪夜さまには不可能なのです。雪夜さまはフルータリアンですから」 「なんですか、それ」 「フルータリアンというのは――」 「いや、知ってます。そうじゃなくて、なんで? だってシェフなのに」  俺の呆れ声に、儀防さんは申し訳なさそうな顔になる。  フルータリアンとは、ベジタリアンの果物バージョンだ。  思想、理念、宗教的理由から食事にいっさいの肉・魚などを取り入れず、一部の限られた食材を――大まかにはフルーツのみを摂取する人々である。つきつめれば細かい決まりごとがあるかもしれないが、大体それで間違いないと思う。  シェフ自身がフルータリアンだなんて、少なくとも俺は聞いたことがない。  雪夜は先ほど白身魚を調理していた。今だってカブをスライスしているので、調理する分にはこだわりがないらしい。 (だからって、シェフがフルータリアンじゃ無理だろ) 果物以外を食せないのでは、味を確かめることができない。何も食べられない人間が、おいしい物を作り提供できるだろうか。 「問題はそこなのです」  儀防さんは絶望的とでもいう風に首を振る。 「雪夜さまの料理はすばらしい出来映えです。しかし、ご本人が『味見もせずに出すわけにはいかない』と、強情に言い張られます。ゆえに、これまでいらしたお客様にはすべてお帰り頂いておりました」 「……大丈夫なんですか?」 「今のところは。ですが、このままの経営が続けば、いずれは店を畳むことになるでしょう」  儀防さんはさらりと告げた。あまり焦っている風には見えない。むしろ閉店になることを望むような態度だった。  雪夜がフルータリアンだから味見ができず、料理が出せない。だからお客さんが来ても追い返すしかなく、一銭の利益も出ない、と。  俺はそこで気づいた。 「あれ? あなたが味見すればいいじゃないですか」  料理の味なんて誰にでもわかる。おいしいか不味いか、辛いか酸っぱいかくらいの違いだ。  儀防さんは「いやいや」と首を振る。 「滅相もございません。私にはとてもとても」 「こいつは僕に意地悪してるのさ」  雪夜が、銀台に前菜のサラダをふたつ置いた。お客様の分と俺の分。俺の分はもちろん味見用に。雪夜に睨まれ、儀防さんは大げさに否定してみせる。 「とんでもございません。ただ私は、当店のオーナーから『雪夜さまの料理はけして口にするな』と厳命されているのです。お役に立てず非常に心苦しいのですが」  雪夜は鼻で笑っていた。 「店が失敗すればいいと思ってるんだろ。まあいいよ。さ、食べてみて。味の感想を聞かせてほしい」  差し出されたフォークを受け取り、俺はおずおずと目の前の皿を見た。 「本当にいいんですか?」 「いいも何も、君が食べてくれないと。僕は食べられないんだから」 「じゃあ」  いただきます、と。ソースを口に含んだ瞬間、瞠目(どうもく)する。  また、マエストロ=トゥーリの味。それが瞬時にわかる。  著名な画家の絵を見て、雰囲気から誰の作品か当てるのに似ている。  わかる者にはすぐわかる、驚きと鮮烈さを備えた芸術性。この『味』。  舌先から口蓋、喉奥へと広がりゆく風味の美しさ。鼻腔へ抜ける爽やかな香り――それがまとまり、脳に届く瞬間、混じり合う複雑さにショートしそうになる。しびれゆく究極の快楽。全身を味に支配されること、感覚ですらも味蕾に翻弄されてしまう。  口に含んだベリーソース――酸っぱさを極限までおさえ、まろやかだ。ほのかな苺の風が鼻を通り抜けてゆく。  コンソメのテリーヌ――人参やホウレン草、トマトのジュレが重ねられ、ほんのり甘い肉の旨みと絶妙にあっていた。  テリーヌに愛らしく添えられた、ハーブ野菜ですら見事だった。ハーブは味に特徴があり、取り合わせ次第で皿全体の印象を大きく変える。  苦味、すっぱみ、ミントの風味――見事に計算された素材の個性が、全体と調和している。食べ終わったあと、舌ざわりがすっきりとするように。  文句なしのひと皿だった。  味に偏りも欠けもない、まさにマエストロ=トゥーリの作風。  美味であると無言で伝えると、儀防さんがもうひと皿のほうを運んでいく。お客様にお出しするひと皿だ。 「喜んでもらえるといいけど」  雪夜は厨房の銀扉(ぎんぴ)の丸窓から、外の様子を窺っていた。  横から見てみると、店内がよく見えた。どうやら、来店したのは二十歳くらいの女性がひとり。笑顔で儀防さんと何か話している。すぐに儀防さんが戻ってきた。 「お客様が、白身魚一品のコースを御所望です。私はご要望のあった白ワインをご用意いたします」 「ん、ありがとう」  返事をしたものの、雪夜は扉の丸窓にへばりつき動こうとしない。  サラダを食べる女性客を食い入るように眺めている。クリスマスプレゼントを開ける子どもみたに。  儀防さんは肩をすくめ、出て行ってしまった。厨房に残された俺はひとり慌てていた。 「急がないと! 次、次の皿の準備をはやく!」 「わかってるよ」  名残惜しげに窓から離れた雪夜は、うきうきと次の料理にとりかかった。  フランス料理のコースは、七から十一品ほどの皿で構成されている。  突き出しがわりのアミューズ、小料理の数で内容は変化するが、大まかには前菜、スープ、魚料理、口直しのソルベ、肉料理。そしてデザートと食後のコーヒー、小菓子が供される。  ミキサーを取り出して、雪夜はスープを作りはじめた。  儀防さんは「白身魚一品のコース」と言っていた。 (となると、メインは魚料理だけ。肉はなし)  それなら、格式ばらないお手軽なコースだ。雪夜ひとりで調理するなら、時間がかかる。手際よく次の皿の下ごしらえを進めなければ、お客様を待たせてしまう。 「あの、俺もなにかお手伝い」 「しぃーっ、静かに」  雪夜は枝豆をミキサーに入れ、その横でベーコンを炒めはじめた。  パチパチ油のはぜる音に耳をすませている。クラシックの演奏を、格式張ったホールで聞く指揮者のように。聴覚に神経を集中させている。  頃合いを見て、フライパンにクリームソースを投入する。チーズ、生クリーム、バターの香り。赤ちゃんのおくるみみたいに優しい匂いだ。厨房いっぱいにそれが広がっていく。 「音が大切なんだ。それと手触り。時間もね」  みるみるうちに枝豆のポタージュが仕上がった。驚異的な手際のよさだ。  味見もせずにどうやってと思ったが、どうやら舌以外の感覚で補っているらしい。  かすかな音や色の識別、クリームを混ぜるときのまろやかな手ごたえ――そういった微事を判別するのは、歳を重ねた職人でも難しい。まだ若いのにどうすればこんな風になれるのだろう。 「はい。味見、頼むね。『枝豆と泡、チーズ、香りのポタージュ』」  俺の前にまたひとつ、芸術的な皿が差し出された。  ひたすら味見を続けていった俺は、目まぐるしい味覚の渦にすっかりのまれていた。  素晴らしい料理にはパワーがある。すべての者を打ちのめし、ひれ伏させる莫大なエネルギーだ。  雪夜の料理はたしかに素晴らしかった――俺はその劇的な美味しさにすっかりやられていた。 「美味しい。ちきしょう、美味しいです」  最後のひと皿。コーヒーと小菓子をいただく頃には、俺は涙が止まらなくなっていた。  情けない。世の中にはこれだけの料理を作る人間がいる。俺よりもずっと若くて、才能のあるシェフがたくさんいる。  ミラベルの若手シェフ・海堂瞬もそうだ。世界には、マエストロ=トゥーリの芸術性を受けついで、再現できる天才が何人もいるのだ。彼らは俺がやりたくてもできないことをすでに成している。 「えっ、そんなに酷い味だった?」  小菓子の皿を複雑そうに見る雪夜に「いえ」と俺は首を振る。 「すいません、なんか……うらやましくて。俺、料理の才能ないし。何もできないから」  味見を終えた皿を、儀防さんが静かにお客様のもとへ運んでいく。  雪夜は不思議そうな顔をした。 「いや、なに言ってるの。君には才能があるよ。さっき僕の料理を味見して、足りない点を教えてくれたよね?」 「それは――辛いとか薄いとかは、誰にだってわかります」  雪夜の料理には雑味というか、時おり味に足りない部分があったのだ。マエストロ=トゥーリの料理には絶対にない不協和音が。おそらく、味見のできない雪夜にはそのかすかな差がわからない。多少塩が足りないとか、食材の味が濃いというのは、けれど無視してもいいレベルの話だ。普通の人はそんな些事にはこだわらない。 「きみ、名前は……深味くん、だっけ? 繰り返すけど、君には料理の才能があるよ」  気休めはやめてほしい。けれど、雪夜は真面目くさった表情をしていた。 「君ほど僕の味を理解してくれた人はいなかった。もしかして、君にはわかるんじゃないかな。普通の人よりもずっと、味覚に優れている?」  俺はこくんと頷く。何を言われたのかはわかった。  雪夜はやっぱりと微笑んでいる。  絶対味覚。いわゆるスーパーテイスターのことだ。  一度食べた味を俺はいつでも思い出せる。なんの食材が使われているのかも、正確にわかる。たとえば、目の前に複雑な調理法で作られた透明なスープがあったとして、そこに何の材料が含まれるか、スープを舌で転がせば瞬時に特定できる。  一見便利に思えるこの特技はしかし、調理の腕前には直結しない。舌の鋭敏さと、料理に必要なひらめきや技量はまったく別ものだ。 「いいなあ。僕、生まれ変わったら君になりたい」  雪夜がうらやましそうに笑うものだから、複雑な気持ちになってくる。  なんともいえない沈黙が落ちたとき、儀防さんが戻ってきた。 「お客様が、シェフに会いたいと仰せです」 「僕、行かないよ。断ってきて」 「よろしいので?」  儀防さんがふと俺を見て、雪夜はひらめいたと手を打つ。 「君が行ってきてよ」 「は!? いや俺は――」 「話を聞いてくるだけでいいから。ね?」 「困ります!」 「私が横でサポートいたしましょう。さあ」  儀防さんに引っ張られ、俺は厨房から連れ出された。 がらんとした店内に女性がひとり、ぽつねんと座っていた。活発そうなショートヘア。  近づいていくと、にこやかに手をあげた。 「あなたがシェフ? すごくおいしかったよ!」 「あ、俺は違くて。シェフは、今ちょっと」 「恐れ入ります。シェフは手が離せない状態です。こちらのスー・シェフ、深味(ふかみ)がお話をうかがいます」 「ス……!?」  スー・シェフ――それは副料理長のことだ。儀防さんは平然と笑っている。  女性はほろ酔いの微笑みで俺を見る。 「それじゃぁ、後で伝えておいて。すごくおいしかったって。実は、ここに来るまでにちょっと嫌なことがあって、落ち込んでたんだけど――」  続きをためらう彼女に、儀防さんがやさしく無言で続きを促した。 「あのね。本当は今日、リストランテ・ミラベルに行こうとしてたの。あ、悪く思わないでね。あの店、写真映えするでしょ? ネットにアップしたくて」 「さようでございましたか」  そつなく答える儀防さんに、女性は安堵の表情になった。 「でも、すげなく追い返されちゃって。予約してたわけじゃないし、混んでるなら仕方ないんだけど、席自体はけっこうあいてたのに。支配人の断わり方がまた怖くて。忙しかったのかもしれないけど、私は客とみなされなかった。なんだか、せっかくここまで来たのに悲しくて……うろうろして、この店を見つけたの」  ミラベルの支配人。きっと八嶋支配人のことだ。  俺にはそのとき、何が起こっていたのかが容易にわかった。  リストランテ・ミラベルは、自店のオーナーをとても大切にしている。 お客様よりオーナーが大事――実際、そういう場面を俺も働いていたとき、何度か目にした。客商売なのに、そういう意味では変わった店だ。 (なにせ、オーナーの財力でまかなわれてる店だから)  経営度外視のミラベルの店は、オーナーただひとりの富で運営されている。彼が「美味しいものが食べたい」という理由から作った店なのだ。  今日、ミラベルの店にはそのオーナーが来た。  俺のせいで湖池レモンの料理は用意できなかった。八嶋支配人の機嫌は最悪だっただろうし、お客様の相手を丁寧にする余裕などなかっただろう。 「あの、すいませんでした」 「どうしてあなたが謝るの? 待って、その制服って」  俺の白服には、ミラベルの店のロゴが入っている。眉を寄せる女性に、儀防さんが笑って告げた。 「彼は元々、ミラベルのシェフでした。最近こちらで引き抜いたのです。制服はまだ替えがなく、そのままなのですが」 「そう、ならいいけど。もう二度とあの店には関わりたくないから」  俺は申し訳なくて、うつむいていた。彼女が受けた二次被害はぜんぶ俺のせいだ。  落ちこむ俺をよそに、女性客のテンションは高い。 「ね、ここの料理をブログに上げていい?」 「もちろんでございます」 「来てよかった。あなたスー・シェフでしょ? シェフにもちゃんと伝えておいてよ。すごく幸せな一日になったって」  にっこり微笑む女性の瞳に曇りがないことだけが幸いだった。雪夜の料理が気分を上向かせた証拠だ。  ちらりと厨房の銀扉に目をやると、丸窓から覗いていた雪夜がさっと頭を引っこめた。出てくればいいのに。網膜に焼きついた幼い雪夜の顔。お客様に喜んでもらえたかと心配で、けれど期待に満ちたシェフの顔だった。
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